March 17, 2008 at 23:41 , Tags:
脳,
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人間
MORI LOG ACADEMY: 入力ばかりだと
面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。
入力ばかりだと - www.textfile.org
どうしたら、自分で考える習慣が身につくだろうか。…はい、ここがチャンス。まず最初に、「どうしたら自分で考える習慣がつくだろうか」の答えを自分で考えるところからはじめればよいのではないだろうか。
上記の記事について、ちょっと考えてみる。
まず、森博嗣氏のほう。
自分の内部を探してもおもしろいものなんてまず見つからない。
自分というのはそもそもそれほど特異なものではない。
考えてることなんてみんなだいたい同じ。
おもしろい考え・アイデアが自分の内部から勝手に湧き出てくるなんてことは絶対にない。
そもそも人間の脳みそはそんな不可解なものではないと思う。
今まで脳みその中に存在しなかったものが突然姿を現す、なんてことが起こるわけない。
にしても、自分が思っても見なかったようなアイデアを思いつく(ように思える)時も確かにある。
でもそれは「そんな気がする」だけ。
何かを思いつくためには絶対に外部とのインタラクションが必要だと思う。
人間の思考というものに対する考え方がちょっと短絡的だなと、文章を読んで思った。
「自分の内部」とか「入力」とか、そもそもそいう言葉が何を表すのかをちゃんと理解して文章を書いてるんですか?、と言いたい。
(ま、僕も言葉の用法に関してはかなり適当だけど)
こういう言葉につられる人は多い。
そういう人たちは、「自分の内部」とか「入力」とかいうものをただ想像してしゃべっているにすぎない。
それが何を意味するのかは本当には考えていない。
「他人とは完全に切り離された自分」という存在がどっかにあると思ってるんだろうな。
ま、それはいいや(僕もこのテーマについてはまだあまり考えまとまってないし)。
というか、「入力ばかり」であることについてどうこういうのは筋が違う。
(というか、入力ばかりでも別にいいじゃん、とか思った)
だいたいアレですよ、自分の考えてることなんてほとんど他人の真似でしかなんいんですよ。
他人の真似の寄せ集めこそが「自分」なんです。
他人の思考を足がかりにしないと人間は何も考えられない。
そういう意味で「入力」は必要というよりは、思考のベースになるものであるからして、必須なんです。
つまり、「出力」は「入力」ありきなんですよ。
次、結城浩氏のほう。
上記をふまえて。
「自分で考える」という思考様式があるんだと思う。
「自分で考える」ことができる人は、その思考様式を他人から学んでいるはず。
というわけで、とりあえず他人の真似から入ったらいいのではないでしょうか。
(何に?)
えーと、つまり何が言いたいかと言うと、「自分で考える」っていうのはそんなにとりたてて特別なことじゃない、ということ。
思考様式の一つに過ぎないんじゃないので。
「自分で考えない」というのも場合によってはアリだと思うし。
(終わり)
January 6, 2008 at 22:48 , Tags:
科学,
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読書,
哲学
これ読みました(一ヶ月ほど前に)。
かなり面白かったですよ。
哲学的な要素が多かったです。
哲学者との対談なんかも載っていて、それがすごく面白いんです。
斎藤慶典っていう人と、河野哲也っていう人との対談がそれぞれ収録されています。
で、その二人の哲学者の主張が意味不明で面白い。
論点見えなさすぎ。
聞き慣れない言葉とかよくわからない概念を持ち出してきて自己主張しようとするんだけど、僕にも著者にもうまく伝わってない感じ。
なんかこう、科学に対する警戒感がヒシヒシと伝わってくる気がしました。
科学が全てではないことを必死になって主張しようとしているように見えましたね。
あと、河野哲也のアフォーダンスの話はほとんど意味不明でした。
哲学者ってみんなこんなんなの?
著者はよくこんなわけのわからない主張をする哲学者との対談に付き合ってられるなぁ、と関心しましたよ(ちょっと言い過ぎかな)。
ま、それはいいとして、著者が本書で主張しているのはつまりこういうこと。
自由意志は物理世界には存在しない。自由意志は私たちの知覚の中に現象として出現する。私がそれを自由であるかのように認識するから、私たちの共通認識に従ってその機能を自由意志と呼ぶと定義されているにすぎない。
僕もそう思う。
本当の意味での自由意志と言えるようなものは物理的に考えて存在しない確率が高い。
でもだからといって悲しむ必要もないし喜ぶ必要もない話ではある。
その他、興味深いと思ったところ。
ところで、宗教は、悟り型、救い型、つながり型に分けられると言われる(脇本平也『宗教学入門』講談社学術文庫)。
へー、そういわれればそんな気も。
ヒュームは、「自由」という言葉の定義のあいまいさが、自由意志の問題を複雑にしているという。
うん、確かに。
私は心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、(幻想であるところの)意識の現象的な側面が作られていると考える。心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは一種の信念である。
「信念」か。
まあ、そう言うしかないのかもなぁ。
そういえば、ウィトゲンシュタインはこんなことを言っていた。
そもそもわたしが何を信じ、何を確信するか、それが私の思い通りになるだろうか。
この洞察はかなり重要ですよ〜。
あと、本書で紹介されていて面白そうだから読んでみようかなー、と思った本。
August 7, 2007 at 1:40 , Tags:
脳,
言語,
読書,
人間
できれば毎日更新したいなぁと常々思っているんですが、みんさんいかがおすごしでしょうか。
認知意味論って知ってますか?
今こういう本読んでるんです。
この本の初めのほうを読む限りだと、認知意味論ってめちゃくちゃつまんないですね。
言葉で言葉を説明しようとして、自らすすんで罠にはまってるような印象を受けます。
気付いたらどうでもいいようなことばかり喋ってる、というような。
ま、でも文章は読みやすいですけどね。
しかし、「意味」って難しいですね。
いや、難しいなんてもんじゃないですね。
意味わかんないですね。
「なぜ意味が生まれるのか」というのも難しい問題ですが、「なぜそれがそういう意味をもつのか」というのもかなり難しい問題です。
…
話は変わります。
文法の話。
文法についてはいろんな理論があるようです。
いろいろありすぎて、わけがわかりません。
本を読んでもほとんどが意味不明です。
実際のところ、「理屈としてはわからなくもないけど本当にそうなのかはわからない」というような理論だらけなんじゃないでしょうか。
いろんな人がいろんな理論を組み立ててますが、いったいどれが正しいんでしょうか。
ふと思ったのですが、もしかすると、実際の文法の「ルール体系」って一つだけじゃないんじゃないでしょうか。
つまり、複数の「ルール体系」が並存しうるんじゃないかと。
例えば、それぞれの脳によって採用されている「ルール体系」が違ったりするんです。
グループ間や世代間で違ったりするわけです。
時間が経つにつれ、その「ルール体系」が変化し、それによって新しい表現が生まれたりするんじゃないでしょうか。
「ら抜き言葉」とかも、そういうことなのかも。
…
あー、ていうか、この程度のことなら他にも同じこと考えてる人がいるだろうな。
August 3, 2007 at 8:19 , Tags:
科学,
脳,
読書,
哲学,
人間
これ読んだ。
先に言っておくと、多少なりともおもしろいと思えたのは 5章と6章のみ。
ていうか、まともに理解できた(と思えた)のがこれらの章だけだった。
正直、ものすごい読むの苦痛だった。
とにかく説明が下手。
読んでてイライラする。
大してすごい考えを持っているわけではなさそうなのにもったいぶった喋り、かつ、無駄が多い上に説明不足かつ曖昧な表現が多いために理解しづらい文章。
自分の抽象的な説明に若干酔っているように見受けられるところもあって、引く。
翻訳が悪いというわけではなさそう。
こんなに読みにくい本は久々。
ちょっと言い過ぎた。
…
著者の主張は次の一点に尽きると思う。
「感覚は行為である」
それは、例えばこんな感じ。
目の前にあるリンゴがなぜ見えるのかというと、その物体をリンゴとして能動的に見ようとしているから。
カメラでリンゴを撮った場合、カメラはリンゴをリンゴとして認識しているなんてことは当然ない。
人間とカメラではそもそも映像の捉え方が違う。
人間はリンゴをリンゴとして見ようとする。
その行為によって初めてリンゴがリンゴとして見えるようになる。
カメラにはそれが不可能。
なぜなら、人間が行っている「見る」という行為を行えないから。
正常な人間はそもそも「リンゴをリンゴとして見ない」なんてことが不可能。
でも「リンゴをリンゴとして見ること」ができない人がいるらしい。
で、それが「盲視」と呼ばれているらしい。
ふと思ったけど、「盲視」ってそんなに特別な状態でもなさそう。
自分の知らない言語で書かれた文章を目にした時の感覚がこれに近いんじゃないかな。
どういう文字が書かれているかはわかるけど、どういう内容なのかはわからない、みたいな感覚ね。
リンゴがリンゴに見えるのもすごいけど、文章が読めるっていうのも、よくよく考えてみるとすごい能力だよなぁ。
…
全体として非常に読みにくい印象だったけど、いくつか面白いところはあった。
一つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には、1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は、被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は、映像を取り込むテレビカメラと、それを振動に変換して肌で感じられるようにするために、機械仕掛けのバイブレータをずらっと平面上に並べたものからなり、被験者は、驚くほどわずかの練習をしただけで、触覚情報を使って、周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは、この現象を「皮膚視覚」と名づけ、被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると、何のためらいもなく主張した。
– p.62..63
要は、視覚のためのインプットは必ずしも「映像」である必要はないんですね。
人間はパターンから外界を認識することができるのだと思います。
ていうか、こういう研究事例をたくさん集めて適当に編集するだけでかなり面白い本ができそうな気がするんだけどなぁ。
そんな簡単じゃないか。
フリードリヒ・ニーチェは、意識の根底にある社会的次元を強調し始めた人の一人だった(ただし、その功績を認められることはめったにないが)。彼はこう書いている。「意識は実際のところ、人と人の間のコミュニケーションの網にすぎない。意識はそのようにしか発達しえなかった。猛獣のように群れずに生きる人間だったら、意識は必要なかっただろう」
ニーチェは、そのコミュニケーションの網がどのように作られるかの説明における先駆者だ。
他者を理解すること、それは、その人の感情を自分の内で模倣することで、私たちは……他者の目つき、声の調子、歩き方、挙動を、自らの体で模倣することによって、その感情を自分の中に生み出す。すると、行動と感覚の間にある太古からの連合作用によって、似た感情が自分の内に生まれる。私たちは他者の感情を理解する技術を、完成度の高い次元まで発達させており、他者の前ではつねに、ほとんど無意識にこの技術を使っている。
身体行為の模倣によって共感が生まれるという考えを1880年代に示していたのだから、その先見性には舌を巻く。
– p.115..116
ニーチェすげー!
こんなこと考えてたんだ。
…
ま、最後の方はそこそこおもしろかったので、最後まで読んで良かったなと思いました。
August 1, 2007 at 0:28 , Tags:
科学,
脳,
読書,
人間
「赤を見る」(ニコラス・ハンフリー著)と言う本を読んでるけど、これ、なかなか読みにくい。
著者が説明下手なのか、僕の理解力が足りないのか。
ていうか、いきなり抽象的な話に飛ぶから置いてけぼりを食う。
そんな感じ。
でもたぶんもうちょっと読み進めれば面白くなってくるんだと思う。
著者自身考えがまとまっていない印象を受ける。
人は、考えがまとまっていないと抽象的なことばかり言ったりする。
「それについて僕はちゃんとわかってるんだけどうまく言葉にできないだけなんだよね」みたいな雰囲気をかもし出したり。
あと、やたら自分寄りのコンテキストで話を進めようとする文章は読んでいて疲れる。
なんか暗黙の大前提があって、それを知っている人に向けてのみ、何の前置きもなしに書いてそうな。
この本を読んでるとそんな印象を受ける。
まあまだ1/3しか読んでないからあれこれ言うのにはちょっと早いけど。
後半から面白くなるのかな。
全部読んだらちゃんと書評書く。