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恋する天才科学者 内田 麻理香 講談社 2007-12-20 |
おもしろかったっす。
まあ、いろんな人がいるんだなぁと。
科学者に限らず、人っていろいろですよね(何が言いたいんだか)。
これ読みました(一ヶ月ほど前に)。
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脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 前野 隆司 技術評論社 2007-08-02 |
かなり面白かったですよ。
哲学的な要素が多かったです。
哲学者との対談なんかも載っていて、それがすごく面白いんです。
斎藤慶典っていう人と、河野哲也っていう人との対談がそれぞれ収録されています。
で、その二人の哲学者の主張が意味不明で面白い。
論点見えなさすぎ。
聞き慣れない言葉とかよくわからない概念を持ち出してきて自己主張しようとするんだけど、僕にも著者にもうまく伝わってない感じ。
なんかこう、科学に対する警戒感がヒシヒシと伝わってくる気がしました。
科学が全てではないことを必死になって主張しようとしているように見えましたね。
あと、河野哲也のアフォーダンスの話はほとんど意味不明でした。
哲学者ってみんなこんなんなの?
著者はよくこんなわけのわからない主張をする哲学者との対談に付き合ってられるなぁ、と関心しましたよ(ちょっと言い過ぎかな)。
ま、それはいいとして、著者が本書で主張しているのはつまりこういうこと。
自由意志は物理世界には存在しない。自由意志は私たちの知覚の中に現象として出現する。私がそれを自由であるかのように認識するから、私たちの共通認識に従ってその機能を自由意志と呼ぶと定義されているにすぎない。
僕もそう思う。
本当の意味での自由意志と言えるようなものは物理的に考えて存在しない確率が高い。
でもだからといって悲しむ必要もないし喜ぶ必要もない話ではある。
その他、興味深いと思ったところ。
ところで、宗教は、悟り型、救い型、つながり型に分けられると言われる(脇本平也『宗教学入門』講談社学術文庫)。
へー、そういわれればそんな気も。
ヒュームは、「自由」という言葉の定義のあいまいさが、自由意志の問題を複雑にしているという。
うん、確かに。
私は心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、(幻想であるところの)意識の現象的な側面が作られていると考える。心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは一種の信念である。
「信念」か。
まあ、そう言うしかないのかもなぁ。
そういえば、ウィトゲンシュタインはこんなことを言っていた。
そもそもわたしが何を信じ、何を確信するか、それが私の思い通りになるだろうか。
この洞察はかなり重要ですよ〜。
あと、本書で紹介されていて面白そうだから読んでみようかなー、と思った本。
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なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎 (日経ビジネス人文庫) ダニエル・L. シャクター Daniel L. Schacter 春日井 晶子 日本経済新聞社 2004-11 |
例えば、
科学を信じるのも宗教を信じるのも同じこと。
どちらかが絶対に正しいなんてことはない。
自分が信じたいほうを信じればいい。
なーんて考えは甘っちょろすぎる。
「信じる」ということに対する考えが浅すぎるんだよね。
科学を信じる必要がないと言いつつ、常に自分の足下に地面が存在することを信じていられるというのはどういうことなんだ?
要するに、都合が良すぎるんだよね、そういう考え方って。
自分の信念にとって都合の悪いものについては信じたくないと言い、それ以外のどうでもいいこと(なぜ重力が存在するのかとか、なぜ飛行機が飛ぶのかとか)については盲目的に信じている(ように見える)。
それってどういうこと?
これ読んだ。
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赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由 ニコラス ハンフリー Nicholas Humphrey 柴田 裕之 紀伊國屋書店 2006-11 |
先に言っておくと、多少なりともおもしろいと思えたのは 5章と6章のみ。
ていうか、まともに理解できた(と思えた)のがこれらの章だけだった。
正直、ものすごい読むの苦痛だった。
とにかく説明が下手。
読んでてイライラする。
大してすごい考えを持っているわけではなさそうなのにもったいぶった喋り、かつ、無駄が多い上に説明不足かつ曖昧な表現が多いために理解しづらい文章。
自分の抽象的な説明に若干酔っているように見受けられるところもあって、引く。
翻訳が悪いというわけではなさそう。
こんなに読みにくい本は久々。
ちょっと言い過ぎた。
…
著者の主張は次の一点に尽きると思う。
「感覚は行為である」
それは、例えばこんな感じ。
目の前にあるリンゴがなぜ見えるのかというと、その物体をリンゴとして能動的に見ようとしているから。
カメラでリンゴを撮った場合、カメラはリンゴをリンゴとして認識しているなんてことは当然ない。
人間とカメラではそもそも映像の捉え方が違う。
人間はリンゴをリンゴとして見ようとする。
その行為によって初めてリンゴがリンゴとして見えるようになる。
カメラにはそれが不可能。
なぜなら、人間が行っている「見る」という行為を行えないから。
正常な人間はそもそも「リンゴをリンゴとして見ない」なんてことが不可能。
でも「リンゴをリンゴとして見ること」ができない人がいるらしい。
で、それが「盲視」と呼ばれているらしい。
ふと思ったけど、「盲視」ってそんなに特別な状態でもなさそう。
自分の知らない言語で書かれた文章を目にした時の感覚がこれに近いんじゃないかな。
どういう文字が書かれているかはわかるけど、どういう内容なのかはわからない、みたいな感覚ね。
リンゴがリンゴに見えるのもすごいけど、文章が読めるっていうのも、よくよく考えてみるとすごい能力だよなぁ。
…
全体として非常に読みにくい印象だったけど、いくつか面白いところはあった。
一つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には、1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は、被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は、映像を取り込むテレビカメラと、それを振動に変換して肌で感じられるようにするために、機械仕掛けのバイブレータをずらっと平面上に並べたものからなり、被験者は、驚くほどわずかの練習をしただけで、触覚情報を使って、周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは、この現象を「皮膚視覚」と名づけ、被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると、何のためらいもなく主張した。
– p.62..63
要は、視覚のためのインプットは必ずしも「映像」である必要はないんですね。
人間はパターンから外界を認識することができるのだと思います。
ていうか、こういう研究事例をたくさん集めて適当に編集するだけでかなり面白い本ができそうな気がするんだけどなぁ。
そんな簡単じゃないか。
フリードリヒ・ニーチェは、意識の根底にある社会的次元を強調し始めた人の一人だった(ただし、その功績を認められることはめったにないが)。彼はこう書いている。「意識は実際のところ、人と人の間のコミュニケーションの網にすぎない。意識はそのようにしか発達しえなかった。猛獣のように群れずに生きる人間だったら、意識は必要なかっただろう」
ニーチェは、そのコミュニケーションの網がどのように作られるかの説明における先駆者だ。他者を理解すること、それは、その人の感情を自分の内で模倣することで、私たちは……他者の目つき、声の調子、歩き方、挙動を、自らの体で模倣することによって、その感情を自分の中に生み出す。すると、行動と感覚の間にある太古からの連合作用によって、似た感情が自分の内に生まれる。私たちは他者の感情を理解する技術を、完成度の高い次元まで発達させており、他者の前ではつねに、ほとんど無意識にこの技術を使っている。
身体行為の模倣によって共感が生まれるという考えを1880年代に示していたのだから、その先見性には舌を巻く。
– p.115..116
ニーチェすげー!
こんなこと考えてたんだ。
…
ま、最後の方はそこそこおもしろかったので、最後まで読んで良かったなと思いました。
「赤を見る」(ニコラス・ハンフリー著)と言う本を読んでるけど、これ、なかなか読みにくい。
著者が説明下手なのか、僕の理解力が足りないのか。
ていうか、いきなり抽象的な話に飛ぶから置いてけぼりを食う。
そんな感じ。
でもたぶんもうちょっと読み進めれば面白くなってくるんだと思う。
著者自身考えがまとまっていない印象を受ける。
人は、考えがまとまっていないと抽象的なことばかり言ったりする。
「それについて僕はちゃんとわかってるんだけどうまく言葉にできないだけなんだよね」みたいな雰囲気をかもし出したり。
あと、やたら自分寄りのコンテキストで話を進めようとする文章は読んでいて疲れる。
なんか暗黙の大前提があって、それを知っている人に向けてのみ、何の前置きもなしに書いてそうな。
この本を読んでるとそんな印象を受ける。
まあまだ1/3しか読んでないからあれこれ言うのにはちょっと早いけど。
後半から面白くなるのかな。
全部読んだらちゃんと書評書く。
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生物と無生物のあいだ 福岡 伸一 講談社 2007-05-18 |
これ読みました。
非常に読みやすかったです。
著者の言いたいことがダイレクトに伝わってくる感じがしました。
ただ、タイトルと内容がいまいち一致しないというか、タイトルからこの内容は想像できないなぁ。
しかし期待を上回る面白さ。
著者は物書きとしての才能が十二分にあると思われる。
いろんなエピソードが随所に配置されていて読者を飽きさせない。
たまに説明が回りくどいときもあるけど、全体を通して表現がとにかく丁寧。
そのため、最小限のコストで最大限の知的興奮を得られた感じ。
こういう良い本に出会うと得した気分になる。
つくづく生物って不思議だなぁって、改めて思いました。
生物活動のダイナミズムってほんとすごいですね。
すごすぎです。
生物の体は細胞でできており、その細胞はタンパク質でできている。
そしてそのタンパク質は20種類のアミノ酸によって構成されており、そのアミノ酸はいくつかの分子からなっている。
こういった人間の体を構成する物質は日々入れ替わっている。
分子のレベルで見れば、半年から一年ほどでほぼ全て入れ替わるらしい。
つまり、一年前に自分の体を構成していた分子は今はもうそこには存在しない。
分子レベルで見ると完全に別の物になっている。
我々がこうやって地球に存在してるのって、ほんと、奇跡ですね。
駄文注意:
チョムスキーの生成文法についていろいろ知りたかったのでこれを読みました。
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チョムスキー入門 生成文法の謎を解く 町田 健 光文社 2006-02-16 |
非常に良かったです。
わかりやすいし。
ていうか、難しそうなところは飛ばして読んだ(笑)。
この本は要所要所かいつまんで読むのが良いんですよ、きっと。
生成文法についてだいぶ理解できた。
なぜそういう発想が生まれたのかとか、その問題点とか。
で、読んでて思ったんですが、生成文法ってかなり科学的なアプローチであると謳ってるけど、結構あやしいです。
著者もその点を的確に指摘していて、靄がいくぶんか晴れる感じがしました。
僕自身、チョムスキーがなぜ生成文法なんていう理論を突き詰めようとするのか良くわからなかったんですよね。
それによって何がわかるのか、っていうのがいまいちはっきりととらえられなかった。
文法の規則がわかったところでどうなるというんでしょうね。
ていうか、文法の変換規則とかについて云々言うとき、すでにその文章の意味を知ってしまっている人間がそれをやるわけだから、恣意的にならざるを得ないわけです。
「太郎が米を食った」と「米が太郎に食われた」という文章が同じ意味だなんて、んなわけあるかと。
バカの極みですね。
全くもって「意味」というものをとらえ損ねている。
生成文法の理論にはたくさんの問題(それもかなり根幹にかかわるようなやつ)があって、それを取り繕うための理屈を編み出すことで発展してきたように見えます。
「意味」から切り離された世界で、純粋に「文法」だけに焦点をあてて理論を組み立てようとしたけど、結局「なぜそのような規則が存在するのか」ということを考え始めた時に「意味」からは逃れられないことに気づく、といった感じか。
「恋愛論」ばかり論じることに忙しくて一切恋愛してなかった、みたいな。
「太郎が米を食った」と「米が太郎に食われた」は、文法的には「等値」なはずなんだけど、なぜ印象が違ってくるのか。
そういった疑問をチョムスキーは完全にスルーする(ように見える)。
さらに言うなら、「太郎が米を食った」という文章がどこかで書かれたとして、それを書いた人の意図はなんなのか、というところまで含めて人間は文章の意味をとらえようとすると思うんだけど、そのことについて言語学の現場ではどのような議論がなされているのか。
…
チョムスキーはこう考えたそうです。
「人間は言語を5年程度でマスターする。
5年は短すぎる。
人間には言語を処理する機能が生まれながらに備わっていると考えざるを得ない。」
あと、言語によって文法はだいぶん異なるけど、それについて人間がどう対応しているかというと、それについてはこんなふうに考えているらしい。
「脳には、文法に応じたスイッチがいくつかあって、それが発育の過程で切り替わるのだ」
そのスイッチがどのようにしてできたのかが知りたいところです。
ていうか、文法って意外と簡単な規則で成り立ってると思うんですよね。
5年で習得できたとしても不思議じゃないかもしれません。
ま、サルにはできないことなんで、人間特有の何かがあるんでしょうけど。
そもそも、人間が簡単にやってのけることを機械にやらせようとすると、どれもやたら難しかったりしますよね。
ASIMOとか、ロボットがただ歩いただけで拍手喝采。
映像を認識したりだとか音声を認識したりだとか、人間に備わっているこれらの機能は、コンピュータのアナロジーで実現できるようなものではないのかもしれませんね。
…
というわけで、寝ます。