July 12, 2007

読書: ウィトゲンシュタインはこう考えた

これ、

ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951 ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951
鬼界 彰夫

講談社 2003-07
売り上げランキング : 39019

Amazonで詳しく見る by G-Tools

途中まで読んで、それから長い間読まずに放置してたんだけど、ようやく最後まで読めそう。
あと数ページ。

とにかく最後の方が面白い。
この本についても、ウィトゲンシュタインの思想についても。

この本を読んで僕の世界観はかなり改良されたと思う。
内容は、ウィトゲンシュタイン関連の本としては奇跡的にわかりやすいと思う。
ウィトゲンシュタインの思想についてこれほど網羅的でわかりやすく的確に解説している本は他にないんじゃないかな。
あらためてウィトゲンシュタインのすごさを感じた。
いや、ほんと、ウィトゲンシュタインはすごい哲学者ですよ。

ウィトゲンシュタインについてよく知らない人はまずこの本から読むのが良いと思います。

ウィトゲンシュタイン入門 ウィトゲンシュタイン入門
永井 均

筑摩書房 1995-01
売り上げランキング : 31787

Amazonで詳しく見る by G-Tools

僕は高校生のときにこれを読んで以来ウィトゲンシュタインにはまってる。
「はまってる」っていうのはいろんな意味で。

今思えば当時は全然理解が足りてなかった。
単に「哲学的なことを考えている自分」に満足してただけなんだろうな。

December 30, 2006

「読書: 私家版・ユダヤ文化論 - 内田 樹」の続き

読書: 私家版・ユダヤ文化論 - 内田 樹」の続き。
印象に残ったところを抜き出して感想っぽいものを。

キリスト教徒にとって、ユダヤ教徒がキリスト教国の中に存在し、それなりの社会的活動を果たしているということは社会のキリスト教化が未だ成就していないことを意味していた。しかし、さまざまな弾圧や恫喝にもかかわらず、ユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させることはたいへんに困難な事業であった。
おそらくこの強制改宗の組織的な失敗が、キリスト教国内にユダヤ教徒が存在するという事実はヨーロッパのキリスト教化と背馳しないという「一回ひねり」のロジックの発明を要請することになった。つまり、彼らが改宗を拒み、それゆえに差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実そのものが「まむしの末裔たち」に神の呪いが下っていることのうごかぬ証拠であり、キリストの教えの真理性を証明しているという説明がなされたのである。
―― p.30, p.31

ここ読んですごく腑に落ちた。
なんとなく理解した気になれた。

それは、ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたということである。言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。
私たちの誤謬には、「それ」を名付けることばがなく、それゆえ私たちが「それ」について語ることばの一つ一つが私たちにとっての「他者」の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。
―― p.36

ということらしいよ。
このあたりからだんだん哲学っぽくなって面白くなってくる。

性差が幻想であることを私は喜んで認める。けれどもその幻想の中に私たちは産み落とされており、どのような命がけの宙返りを演じてみても「性化されていない人間」というものを想像することができないということはあらためて告げなければならない。
私たちはユダヤ人の話をしているのである。
ユダヤ人とは人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間のことである。これは正しい。ただし、これはサルトルが言うように、「そこから出発すべき単純な真理」であるのではなく、むしろ、どこまで遡っても、そこから出発することのできない同語反復の始点=終点なのである。
―― p.52

何かについて語るというのはそう簡単ではないということが、思考を重ねていくうちにわかってくることがある。
語っている本人が実はその語っている対象に含まれている時がまさにそう。
ジェンダーにまつわる話とかね。
ある人は「性差は幻想である」と言い、またあるひとは「いや、そもそも人間というのはその幻想によって基礎づけられている」と言う。
誰にとってもそれは自分自身に直接関わる問題なので、客観的に語るということはどうしてもできない。
ユダヤ人について語るのもそれに似ているらしい。
(うまく説明できてないね)

「第二章 日本人とユダヤ人」では日猶同祖論について触れられているけど、僕は日猶同祖論についてあまり知らなかったのでものすごく興味をそそられた。

「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」では、主にフランスでのユダヤ人にまつわる歴史について書かれている。
どういう経緯によってフランスにおいて反ユダヤ主義が育っていたのかが事実をもとにわかりやすく書かれていて大変参考になった。
この第三章とその次の「終章 終わらない反ユダヤ主義」がこの本メインだと思う。
第三章で読者に基本的な知識を提供しておいて、終章で著者独自の考えを一気に展開していくという感じかな。
その一連の流れが非常にスムーズで良い。

内田樹はとにかくストーリーを語るのがうまい。
読者をぐいぐい引っ張っていく。
やっぱり人間て、なにはともあれストーリーに強く引きつけられる生き物なんだなぁ、とあらためて思った次第です。
おもしろくない本っていうのは、書いてある内容がどうこうというよりも、そのストーリーがすごく退屈なんだと思います。

そういえば、Joel on Softwareのジョエル・スポルスキはストーリーを語るのがすごくうまい。
Joel自身、ストーリーを語ることの重要性について書いている。

「Best Software Writing I」への序文 - The Joel on Software Translation Project

しかしその本は、まったくもって完全に退屈だった。さらに悪いことに、全然説得力がなかった。

その著者は良い文章のための第一のルールである、「語るのではなく、見せよ」というのを破っていた。その本にはストーリーがひとつもなく、「良いチームリーダは、はっきりした例を示すことで触発する」みたいな文章がいっぱい書かれていた。何それ?

話がそれた。
「終章」はとても面白い。

私がこの論考を『私家版』と題したのは、ユダヤ人問題について、できるだけ「わけのわからないこと」を書きたいと思ったからである。
専門家が自分の熟知している分野のことを語ると、「話のつじつまが合いすぎる」ということが起こる。「話のつじつまが合いすぎる」というのは、あまりよいことではない。「つじつまの合いすぎた話」は読者にとっての印象が薄いからである。どういうわけか、輪郭のなめらかな、あまりに整然とした論述は、私たちの記憶にとどまらない。
―― p.160

うん、わかる気がする。

読者にとってはまことに迷惑なテクスト戦略ではあるが、「私にわかっていること」だけをいくら巧みにつぎはぎしても、ユダヤ人問題に私は接近することができない。 [略] ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶にいれてそっと運ぶように)次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えないものなのである。
―― p.162

なかなか大変な作業だ。

ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。
―― p.182

マジか!

個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であること」を目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにその身振りによって、彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。
―― p.197

なんてこった。

ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とかよんでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものでなないか。そのめまいのするような仮説を吟味する時間が来たようである。
―― p.199

ここからどんどんスケールの大きな話というか人間の本質にまでせまろうとするような話になっていく。

ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの術語を借りて言えば、「始原の遅れ」を引きずって)初めて歴史に登場する。
そのつどすでに遅れて登場するもの。
この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
この言明と、前説の最後に記した、「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いたかったことはほぼ尽くされている。
[略]
ユダヤ人は自分たちが「遅れて世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民との差別化を果たした。私はそう考えている。
―― p.213, p.214

うーん、難しい。
言ってることは理解できるけど、うまくイメージできない感じ。
そもそも僕は「民族の違い」ってのをリアルに想像できない気がする。
知識が少ないんだな。

そしてここからさらに話は難しくなっていく。
またいつか読み直す必要があるなぁ。

私家版・ユダヤ文化論 私家版・ユダヤ文化論
内田 樹

文藝春秋 2006-07
売り上げランキング : 8641

Amazonで詳しく見る by G-Tools

August 2, 2006

人生や、この世界や、人間などについてのどんな説明も、結局嘘くさい

分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント - 生きる意味より一部分だけ抜粋。

だから、シロクマさんのやっているような、「肉体」による支配構造の解析は、自分と折り合いをつけるために必要ではある。それは自分を知る行為だから。自分を突き動かす本能の構造を解析する行為だから。

しかし、注意しなければならないのは、それは、あくまで、ビットのレイヤでの話であって、その構造が分かったところで、それはそのまま「人生や行為の意味」にならないのだということなのじゃないかということ。

ほんと、この人はするどい
するどすぎる。
表現もうまい。

人生や、この世界や、人間などについてのどんな説明も、結局嘘くさい
どれもこれも嘘くさくて、「みんな、よくそんなありきたりなので満足してるよなぁ」とか思うことしきり。
でも、「こんなやつらとはやってられないよ!」とか言って投げ出したりするというのも、なんか違うんだよなぁ。

というか、嘘くさいとか言っちゃってること自体嘘くさい


頭とんがってきた。

June 24, 2006

読書: 態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い(内田 樹)

態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い 態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い
内田 樹

角川書店 2006-04
売り上げランキング : 8486

Amazonで詳しく見る by G-Tools

これ読んだ!

なかなか面白かった。
やっぱ内田樹は表現がうまいなぁ、と感心することしきり。

以下、まえがきより引用。

私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなくて、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、これがここまで書いていたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。

これにはすごく同感。
ていうか、なにかを書くにあたって、これほど都合の良い前置きはないよね。
僕もこういうスタンスでブログを書いている、ということにしておこう。

内田樹はこう続ける。

それと同じように、「ウチダ、それは違うよ」と私に告げる人の言葉に私が注意深く耳を傾けることがあるとしたら、それはその人の頭の中にある考えを知るためではありません。
だって、その人がほんとうに批判的に豊かな情報を発信しているとすれば、それはそのことを語りつつある本人もまだ知らないことであるはずだからです。
人の話を聴くというのは、自分が何を言いたいのかをまだ知らない人が口を開くその現場に立ち会うことです。知が生成している当の現場に立ち会うということです。
聴き手である私はこの生成プロセスの立会人であり、その人が今語りつつあることばが含んでいる「私についての知」の共同署名人です。なぜなら、その人が「自分が何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのはほかならぬこの私の存在なんですから。
私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。
これが肝心なことです。

あとで追記するかも。

追記:
せっかくなので、もうちょっと引用してみよう。

命の尊さとか大地の恵みとか、定型的な言い方はいくらでもあるが、自然から子供が学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。
(略)
都会にいるときに不快を感じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
(p.29)

自然は良いよなぁ。

言語的なコミュニケーションの場においても、複雑な音のまじりあう「交響楽」を語れる人と、単純な音しか出せない人がいる。その違いは聴けば分かる。言っている内容がどれほど整合的でも、どれほどアーティキュレーションがクリアーカットでも、薄っぺらな声は、結局私たちの耳には届かない。そこに「響き」がないからだ。
(p.76)

ありがちなことしか言わない人と喋っててもつまらないよね。

あなたがたは私の弟子ではない。だから、あなたがたが私から学んだと思っていることは、あなたがたが進んで「学んだ」ことであって、私が「教えた」ことではない。
いくつもの証言を通して私に聞こえてくるのは、甲野先生のそのようなことばである。
人は「教えない」先生に就いたときにこそもっとも多くを「学ぶ」ことができる。
甲野先生はそのことを熟知されているように私には思われる。
(p.154)

そうなんだよなぁ。

April 6, 2006

根拠無く「自分の考えは正しい」と思っている人はたくさんいるに違いない

人は、「自分が間違った考えをもつはずがない」という根拠の無い思いに簡単にとらわれると思う。
なぜ、そう思うのか。
僕自身がそうだから。

以前、平気で嘘をつく子供を見たのを思い出した。
その子供は自分の言っていることが嘘だとは思っていないようだった。
嘘のつもりでそれを言っているのではないという感じだった。
子供はなんでも信じてしまうんだな。
自分のついた嘘でさえ信じてしまうことができるのだろうな。

しかしここで、「ま、子供だからそういうこともあるだろう」などと思うなかれ。
大人も大して変わらないのだ。
根拠の無く「自分の考えは正しい」と考えている人はたくさんいるに違いない。
なぜ、そう思うのか。
僕自身がそうだから。

ちなみに、「根拠無く『自分の考えは正しい』と考えるのは良くない」などと言いたいわけではない。
自分はそうありたくない、ってだけ。

追記:
タイトルがおかしかったので修正しました。
『根拠の無く「自分の考えは正しい」と思っている人はたくさんいるに違いない』ってなってました。

April 1, 2006

これが今の僕の世界観

以下、ただのメモです。

僕はなぜ「信じるとか信じないとか」の問題にこだわるのだろうか。
本能かな。

「私が宗教を信じるのは、それが代々受け継がれてきた伝統だからです」などと言う人はおそらくいない。
「伝統→信じる」ではなくて「信じる→伝統」なのだ。
人々が信じるものが伝統として受け継がれる。
「受け継がれる」というよりも「共有」されるというほうが近いかも。
世界観の共有。

子供は、親の世界観を写し取る。
その結果、子供は親が見るような仕方で世の中を見るようになる。

「水からの伝言」のようなニセ科学を信じてしまう人がいるのはなぜか。
そういう世界観を親から受け継いだんだろうな。
物事を判断する仕組みが僕のそれとはちょっと違っているんだと思う。

これは空論ではない。
なぜなら、これが今の僕の世界観(の一部)だから。
僕は空論をもとにした世界観をもったりはしない。

March 31, 2006

「私の神」と「みんなの神」

信仰を持つ人は、「私の神」という感覚を持っていたりするかなぁ。
それとも、他の人と同じ「みんなの神」という感覚なのかなぁ。
神を共有するみたいな感覚だったりするかなぁ。
実際に聞いて確かめたい。

ツッコミ歓迎!

追記:
タイトルおよび本文を若干修正しました。