December 30, 2006 at 14:20 , Tags:
社会,
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人間
「読書: 私家版・ユダヤ文化論 - 内田 樹」の続き。
印象に残ったところを抜き出して感想っぽいものを。
キリスト教徒にとって、ユダヤ教徒がキリスト教国の中に存在し、それなりの社会的活動を果たしているということは社会のキリスト教化が未だ成就していないことを意味していた。しかし、さまざまな弾圧や恫喝にもかかわらず、ユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させることはたいへんに困難な事業であった。
おそらくこの強制改宗の組織的な失敗が、キリスト教国内にユダヤ教徒が存在するという事実はヨーロッパのキリスト教化と背馳しないという「一回ひねり」のロジックの発明を要請することになった。つまり、彼らが改宗を拒み、それゆえに差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実そのものが「まむしの末裔たち」に神の呪いが下っていることのうごかぬ証拠であり、キリストの教えの真理性を証明しているという説明がなされたのである。
―― p.30, p.31
ここ読んですごく腑に落ちた。
なんとなく理解した気になれた。
それは、ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたということである。言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。
私たちの誤謬には、「それ」を名付けることばがなく、それゆえ私たちが「それ」について語ることばの一つ一つが私たちにとっての「他者」の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。
―― p.36
ということらしいよ。
このあたりからだんだん哲学っぽくなって面白くなってくる。
性差が幻想であることを私は喜んで認める。けれどもその幻想の中に私たちは産み落とされており、どのような命がけの宙返りを演じてみても「性化されていない人間」というものを想像することができないということはあらためて告げなければならない。
私たちはユダヤ人の話をしているのである。
ユダヤ人とは人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間のことである。これは正しい。ただし、これはサルトルが言うように、「そこから出発すべき単純な真理」であるのではなく、むしろ、どこまで遡っても、そこから出発することのできない同語反復の始点=終点なのである。
―― p.52
何かについて語るというのはそう簡単ではないということが、思考を重ねていくうちにわかってくることがある。
語っている本人が実はその語っている対象に含まれている時がまさにそう。
ジェンダーにまつわる話とかね。
ある人は「性差は幻想である」と言い、またあるひとは「いや、そもそも人間というのはその幻想によって基礎づけられている」と言う。
誰にとってもそれは自分自身に直接関わる問題なので、客観的に語るということはどうしてもできない。
ユダヤ人について語るのもそれに似ているらしい。
(うまく説明できてないね)
「第二章 日本人とユダヤ人」では日猶同祖論について触れられているけど、僕は日猶同祖論についてあまり知らなかったのでものすごく興味をそそられた。
「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」では、主にフランスでのユダヤ人にまつわる歴史について書かれている。
どういう経緯によってフランスにおいて反ユダヤ主義が育っていたのかが事実をもとにわかりやすく書かれていて大変参考になった。
この第三章とその次の「終章 終わらない反ユダヤ主義」がこの本メインだと思う。
第三章で読者に基本的な知識を提供しておいて、終章で著者独自の考えを一気に展開していくという感じかな。
その一連の流れが非常にスムーズで良い。
内田樹はとにかくストーリーを語るのがうまい。
読者をぐいぐい引っ張っていく。
やっぱり人間て、なにはともあれストーリーに強く引きつけられる生き物なんだなぁ、とあらためて思った次第です。
おもしろくない本っていうのは、書いてある内容がどうこうというよりも、そのストーリーがすごく退屈なんだと思います。
そういえば、Joel on Softwareのジョエル・スポルスキはストーリーを語るのがすごくうまい。
Joel自身、ストーリーを語ることの重要性について書いている。
「Best Software Writing I」への序文 - The Joel on Software Translation Project
しかしその本は、まったくもって完全に退屈だった。さらに悪いことに、全然説得力がなかった。
その著者は良い文章のための第一のルールである、「語るのではなく、見せよ」というのを破っていた。その本にはストーリーがひとつもなく、「良いチームリーダは、はっきりした例を示すことで触発する」みたいな文章がいっぱい書かれていた。何それ?
話がそれた。
「終章」はとても面白い。
私がこの論考を『私家版』と題したのは、ユダヤ人問題について、できるだけ「わけのわからないこと」を書きたいと思ったからである。
専門家が自分の熟知している分野のことを語ると、「話のつじつまが合いすぎる」ということが起こる。「話のつじつまが合いすぎる」というのは、あまりよいことではない。「つじつまの合いすぎた話」は読者にとっての印象が薄いからである。どういうわけか、輪郭のなめらかな、あまりに整然とした論述は、私たちの記憶にとどまらない。
―― p.160
うん、わかる気がする。
読者にとってはまことに迷惑なテクスト戦略ではあるが、「私にわかっていること」だけをいくら巧みにつぎはぎしても、ユダヤ人問題に私は接近することができない。 [略] ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶にいれてそっと運ぶように)次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えないものなのである。
―― p.162
なかなか大変な作業だ。
ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。
―― p.182
マジか!
個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であること」を目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにその身振りによって、彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。
―― p.197
なんてこった。
ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とかよんでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものでなないか。そのめまいのするような仮説を吟味する時間が来たようである。
―― p.199
ここからどんどんスケールの大きな話というか人間の本質にまでせまろうとするような話になっていく。
ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの術語を借りて言えば、「始原の遅れ」を引きずって)初めて歴史に登場する。
そのつどすでに遅れて登場するもの。
この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
この言明と、前説の最後に記した、「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いたかったことはほぼ尽くされている。
[略]
ユダヤ人は自分たちが「遅れて世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民との差別化を果たした。私はそう考えている。
―― p.213, p.214
うーん、難しい。
言ってることは理解できるけど、うまくイメージできない感じ。
そもそも僕は「民族の違い」ってのをリアルに想像できない気がする。
知識が少ないんだな。
そしてここからさらに話は難しくなっていく。
またいつか読み直す必要があるなぁ。