August 5, 2007

科学を信じるのも宗教を信じるのも同じこと?

例えば、

科学を信じるのも宗教を信じるのも同じこと。
どちらかが絶対に正しいなんてことはない。
自分が信じたいほうを信じればいい。

なーんて考えは甘っちょろすぎる。
「信じる」ということに対する考えが浅すぎるんだよね。
科学を信じる必要がないと言いつつ、常に自分の足下に地面が存在することを信じていられるというのはどういうことなんだ?

要するに、都合が良すぎるんだよね、そういう考え方って。
自分の信念にとって都合の悪いものについては信じたくないと言い、それ以外のどうでもいいこと(なぜ重力が存在するのかとか、なぜ飛行機が飛ぶのかとか)については盲目的に信じている(ように見える)。
それってどういうこと?

July 9, 2007

思考のフレームワーク

メモ:

文法のさらにもう一段階上の規則がある。
という考え方はどうか。

この本から着想を得た。

ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951 ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951
鬼界 彰夫

講談社 2003-07
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例えば以下の二つの文章。

(1) 山田君が痛がっている
(2) 石が痛がっている

どちらも文法的には同じ規則に従って作られているけど、(2) の方の文章はなんか変。
というか状況的にあり得ない。

ま、百歩譲ってそういう表現もありだとして、じゃあ次の文章はどうか。

(3) 赤が痛がっている

色が痛がるなんてそんなバカな!、って感じですよね。
こういう文章を見て「こんな文章はナンセンスだ」なんてことは簡単に言えると思うんですけど、それ以上に、(2) や (3) を見て「そんな表現は絶対にありえない」ときっぱりと言いたくなるような、そんな「信念」に近いものを僕は感じます。

なにがそう感じさせるのか。
文法のさらにもう一段階上の規則がそう感じさせるんです。
「もう一段階上」ってのが微妙な表現だけど。

「痛がっている」とか「痛がる」という語の運用ルールがすでに集団の中で決められているんですね。
人類はそういったルールを脈々と受け継いできているわけです。
世界を認識する方法として、そのルールを共有しているんです。
例えば、ある対象を自分が理解しているとき、それは、「自分」が理解しているというより、「自分」が所属している「集団」がそう理解している、ということなんです。
だから、自分だけの完全にオリジナルな「理解」というのはあり得ないんです。
思考のフレームワークにおいてその動作は不可能なんです。

宗教なんかも、世界を認識するために編み出された思考のフレームワークのひとつなんだと思います。
そう考えると、宗教と僕の思考はたいして違わない気もしますが、自分で自分を改良できるかどうかの違いはある気がするというか、あってほしい。

January 13, 2007

読書: グーグル八分とは何か

グーグル八分とは何か グーグル八分とは何か
吉本 敏洋

九天社 2006-12
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これ、だいたい読んだ。
普通に面白い。

著者はあの「悪徳商法?マニックス」を運営してる人。
なので、そっちよりの内容も多かったけど、どれもなかなか興味深くて面白かった。

世の中いろんな会社とか団体があるなぁ。
僕はそういった情報には疎い。

あ、そういえば妻曰く、先日、近所のおばちゃんが家に来たらしい。
近所に住んでるとはいっても、たまに会えば挨拶する程度で特に話といえるような話はしたことがない、そんなおばちゃん。
はじめは僕の子供の名前とか聞いたり、なんか当たり障りのない世間話のようなノリで話してたらしい。
でも、実は宗教の勧誘だった。
なんか「育児に関する講演があります」みたいなことを言っていたらしい。
二度と来ないでほしい。
でも、僕の家のすごく近くに住んでる人だからよく会うんだよなぁ。
もう今の家に長く住みたくなくなった。
もともと近いうちに引っ越すつもりではいたんだけど。

December 30, 2006

「読書: 私家版・ユダヤ文化論 – 内田 樹」の続き

読書: 私家版・ユダヤ文化論 – 内田 樹」の続き。
印象に残ったところを抜き出して感想っぽいものを。

キリスト教徒にとって、ユダヤ教徒がキリスト教国の中に存在し、それなりの社会的活動を果たしているということは社会のキリスト教化が未だ成就していないことを意味していた。しかし、さまざまな弾圧や恫喝にもかかわらず、ユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させることはたいへんに困難な事業であった。
おそらくこの強制改宗の組織的な失敗が、キリスト教国内にユダヤ教徒が存在するという事実はヨーロッパのキリスト教化と背馳しないという「一回ひねり」のロジックの発明を要請することになった。つまり、彼らが改宗を拒み、それゆえに差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実そのものが「まむしの末裔たち」に神の呪いが下っていることのうごかぬ証拠であり、キリストの教えの真理性を証明しているという説明がなされたのである。
―― p.30, p.31

ここ読んですごく腑に落ちた。
なんとなく理解した気になれた。

それは、ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたということである。言い換えれば、私たちがユダヤ人と名づけるものは、「端的に私ならざるもの」に冠された名だということである。
私たちの誤謬には、「それ」を名付けることばがなく、それゆえ私たちが「それ」について語ることばの一つ一つが私たちにとっての「他者」の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。
―― p.36

ということらしいよ。
このあたりからだんだん哲学っぽくなって面白くなってくる。

性差が幻想であることを私は喜んで認める。けれどもその幻想の中に私たちは産み落とされており、どのような命がけの宙返りを演じてみても「性化されていない人間」というものを想像することができないということはあらためて告げなければならない。
私たちはユダヤ人の話をしているのである。
ユダヤ人とは人々が「ユダヤ人だ」と思っている人間のことである。これは正しい。ただし、これはサルトルが言うように、「そこから出発すべき単純な真理」であるのではなく、むしろ、どこまで遡っても、そこから出発することのできない同語反復の始点=終点なのである。
―― p.52

何かについて語るというのはそう簡単ではないということが、思考を重ねていくうちにわかってくることがある。
語っている本人が実はその語っている対象に含まれている時がまさにそう。
ジェンダーにまつわる話とかね。
ある人は「性差は幻想である」と言い、またあるひとは「いや、そもそも人間というのはその幻想によって基礎づけられている」と言う。
誰にとってもそれは自分自身に直接関わる問題なので、客観的に語るということはどうしてもできない。
ユダヤ人について語るのもそれに似ているらしい。
(うまく説明できてないね)

「第二章 日本人とユダヤ人」では日猶同祖論について触れられているけど、僕は日猶同祖論についてあまり知らなかったのでものすごく興味をそそられた。

「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」では、主にフランスでのユダヤ人にまつわる歴史について書かれている。
どういう経緯によってフランスにおいて反ユダヤ主義が育っていたのかが事実をもとにわかりやすく書かれていて大変参考になった。
この第三章とその次の「終章 終わらない反ユダヤ主義」がこの本メインだと思う。
第三章で読者に基本的な知識を提供しておいて、終章で著者独自の考えを一気に展開していくという感じかな。
その一連の流れが非常にスムーズで良い。

内田樹はとにかくストーリーを語るのがうまい。
読者をぐいぐい引っ張っていく。
やっぱり人間て、なにはともあれストーリーに強く引きつけられる生き物なんだなぁ、とあらためて思った次第です。
おもしろくない本っていうのは、書いてある内容がどうこうというよりも、そのストーリーがすごく退屈なんだと思います。

そういえば、Joel on Softwareのジョエル・スポルスキはストーリーを語るのがすごくうまい。
Joel自身、ストーリーを語ることの重要性について書いている。

「Best Software Writing I」への序文 – The Joel on Software Translation Project

しかしその本は、まったくもって完全に退屈だった。さらに悪いことに、全然説得力がなかった。

その著者は良い文章のための第一のルールである、「語るのではなく、見せよ」というのを破っていた。その本にはストーリーがひとつもなく、「良いチームリーダは、はっきりした例を示すことで触発する」みたいな文章がいっぱい書かれていた。何それ?

話がそれた。
「終章」はとても面白い。

私がこの論考を『私家版』と題したのは、ユダヤ人問題について、できるだけ「わけのわからないこと」を書きたいと思ったからである。
専門家が自分の熟知している分野のことを語ると、「話のつじつまが合いすぎる」ということが起こる。「話のつじつまが合いすぎる」というのは、あまりよいことではない。「つじつまの合いすぎた話」は読者にとっての印象が薄いからである。どういうわけか、輪郭のなめらかな、あまりに整然とした論述は、私たちの記憶にとどまらない。
―― p.160

うん、わかる気がする。

読者にとってはまことに迷惑なテクスト戦略ではあるが、「私にわかっていること」だけをいくら巧みにつぎはぎしても、ユダヤ人問題に私は接近することができない。 [略] ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶にいれてそっと運ぶように)次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えないものなのである。
―― p.162

なかなか大変な作業だ。

ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。
―― p.182

マジか!

個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間的であること」を目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、ユダヤ人は「端的に人間的であろうとする」まさにその身振りによって、彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。
―― p.197

なんてこった。

ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とかよんでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものでなないか。そのめまいのするような仮説を吟味する時間が来たようである。
―― p.199

ここからどんどんスケールの大きな話というか人間の本質にまでせまろうとするような話になっていく。

ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において(レヴィナスの術語を借りて言えば、「始原の遅れ」を引きずって)初めて歴史に登場する。
そのつどすでに遅れて登場するもの。
この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。
この言明と、前説の最後に記した、「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いたかったことはほぼ尽くされている。
[略]
ユダヤ人は自分たちが「遅れて世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民との差別化を果たした。私はそう考えている。
―― p.213, p.214

うーん、難しい。
言ってることは理解できるけど、うまくイメージできない感じ。
そもそも僕は「民族の違い」ってのをリアルに想像できない気がする。
知識が少ないんだな。

そしてここからさらに話は難しくなっていく。
またいつか読み直す必要があるなぁ。

私家版・ユダヤ文化論 私家版・ユダヤ文化論
内田 樹

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June 21, 2006

世界が狭い

注: 偏見を多く含みます

はちことぼぼるの日記 – 無神論者との対話

パスターが今回の対話で成し遂げたのは、無神論者の疑問や反論に論理で対抗し相手を納得させることではなく、たとえ自分とは信仰や考え方がまったく違う人とであっても、敬意と誠実をもって相手に関心を示し、心を開いた対話をするとはどういうことかを、その場にいた人たちに実地で示したことだった。クリスチャン同士であっても、神学的立場が違ったりすると冷静な議論ができなくなる人は少なくない。見る人がつまずきそうな陰険なやり取りがなされることだってある。しかし、パスターとHemantのやり取りにはまったくそういうところがなかった。

パスターさんとHemantさんのどちらが人間として優れているかというと、明らかにHemantさんのほうだ。
なぜなら、パスターさんは「受け身」でしかないから。
Hemantさんの「積極性」がすばらしいのだ。そこはパスターさんも見習うべきだ。
Hemantさんのように、自分の知らないことをもっと積極的に知ろうとすべき。
そのためにはキリスト教徒をやめることもいとわないという姿勢を持つべきなんじゃないか。それは言い過ぎか。

パスターさんはHemantさんに対し、ただ真摯に応対しただけ(だと思う)。
それは他人とコミュニケーションするときのごくごく普通の姿勢。
相手のことを極力理解しようとつとめた。ただそれだけのことではないのか。
それを「すごいすごい」とか言って。
キリスト教徒のレベルってそんなもんなのか。
他人の意見を受け入れ、自分が間違っていると思えることがあれば認める。そういう基本的なことができないんだろうな、キリスト教の人って。
だから「すごいすごい」言ってるんだろうな。
世界が狭い。

[via [結] 2006年6月 – 結城浩の日記 – 無神論者との対話]

May 5, 2006

読書: 悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師 悪魔に仕える牧師
リチャード・ドーキンス 垂水 雄二

早川書房 2004-04-23
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これ読み始めたんだけど、進捗は芳しくない。
慎重に読み進めないと意味を汲み取り損ねる恐れがあると思うので、じっくり読んでる。
まだ1割くらいしかちゃんと読んでない。
それでこんなこと言うのもアレなんだけど、内容的にはかなり面白いし、ドーキンスの考え方はすごく真っ当だと思う。

まだあまり良く理解できてないのが、ダーウィンの進化論に関するドーキンスの考え方。
ドーキンスはこういうことを言っている。

学問にたずさわる科学者としてダーウィン主義を選ぶ一方で、人間としてそれに反対することのあいだに、なにも矛盾したところはない。

人間としてダーウィン主義に反対するというのはどういうことなんだろうか。
そもそも、人間として見たときのダーウィン主義って何?
そこがわからないとこの話には付いていけないな。
なので調べてみる。例によってWikipediaで。
ダーウィニズム – Wikipedia

ふむ。ドーキンスはつまりこういうことが言いたいのかな。
「自然淘汰」とか「適者生存」という考え方は、科学としては有効だけど、人間に対してそれをそのまま当てはめて考えるのはちょっと違うんじゃないの?と。

ドーキンスはさらにこういうことを言っている。

正当なダーウィン主義的理由によって、進化は人類に脳を与え、それがしだいに大きさを増し、ついには自らの出自を理解し、そこに含まれる道徳的な意味合いを遺憾に思い、それと戦うことができる地点にまで到達したのである。私たちは避妊をするたびに、脳がダーウィン主義的なデザインに逆らえることを実証しているのである。

これって「自由意志」とかの話に似ている。
僕はこの考えには賛成。

追記 – 2006.05.06
科学者でもこういった道徳に関することに言及したりするんだなあ、と思った。
科学という学問は。そういう部分とは切り離されたものだと思っていたから、意外に感じた。
ま、そう思うのは、僕が歴史を知らなすぎなだけだからなんだろうけどね。

「私たちは避妊をするたびに、脳がダーウィン主義的なデザインに逆らえることを実証しているのである。」ってところには若干疑問を感じる。
避妊を選んだ個体は、全体から見れば結果的に淘汰されたことになるんじゃないかな、って思うから。
もしダーウィン主義的なデザインに本当に逆らおうとするなら、種全体で避妊しなくちゃならないと思うんだよね。
屁理屈っぽい?もしくは理解不足?

全部読んでからもう一度良く考えてみる必要があるな。
/追記

話は変わるけど、ドーキンスの話には隠喩が多い気がする。
宗教に関す事柄も、その大半が隠喩なのではないかな。

僕は「悪魔に仕える牧師」を(少しだけ)読んで、このように考えたんだよね。
ドーキンスは宗教そのものを批判しているわけではない、と。

ちょっと前までの僕の考え方は今のものとは違ってた。
欧米では、宗教が科学にまとわり付いてくるらしい。
で、僕はこう考えた。
ドーキンスは単に「宗教うぜぇよ!」的なことを言っている人なのかな、と。
でも冷静に考えてみればわかるけど、ドーキンスほどの有名な科学者がそんな短絡的なことを言ったりするはずないんだよね。

追記 – 2006.05.06
この本の最終章「娘のための祈り」に、「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」というエッセイがある。
このエッセイは、形の上では、娘のジュリエットに向けたメッセージとして書かれている。
そして、ドーキンスはこのエッセイの解説として、このようなことを書いている。

彼女の子供時代の大半は、不幸にも、私は彼女とごく短い時間だけしか顔をあわせることができず、人生において大切な事柄について語るのは容易ではなかった。私はつねに、幼児の洗脳につながるどんな小さな示唆も避けるように、周到な注意を払ってきた。幼児期の洗脳こそ、世界の災いごとのほとんどに対して究極的な責任があると、私は考えている。彼女にそれほど近しくない他の人々は、そのような遠慮を見せず、そのことが私をうろたえさせた。すべての子供がそうあってほしいのだが、私は娘が、しかるべき年齢に達したとき、自分の精神を自由に形成してくれることを非常に強く願っていたからである。私は娘に何を考えるべきかについては言わないで、考えることを奨励しようとした。一〇歳になったとき、私は彼女に短い手紙を書くことについて考えた。

ちなみに僕は以前、このエッセイに関して言及している。[System.exit(); - 神を信じるということ]
その時、僕はこういうふうに思っていた。
「『娘への手紙』という形式は、宗教批判の為の小細工に違いない」と。
しかし、上に引用した文章を読んで、その考えが間違いであることに気づいた。
この本の編者も「編者によるまえがき」でこのようなことを言っているし。

最終章「娘のための祈り」は、多くの点で、本書の中心的なテーマを要約している。それは未来の世代が、理性を信じ、証拠に基づいて自然界を理解するという努力をつづけて欲しいという切なる願いを表明している。それは退屈きわまりない宗教的信条の圧政に対する情熱的な異議申し立てである。

この考えにはすごく共感できる。
子供がいるのでなおさら。

しかし、最後の「それは退屈きわまりない宗教的信条の圧政に対する情熱的な異議申し立てである。」というところは厳密に言うと間違っているんじゃないかと思う。
ドーキンスの主張の本当の目的はそこ(退屈きわまりない宗教的信条の圧政に対する情熱的な異議申し立て)ではないと思うから。
ドーキンスは、宗教を批判することを直接の目的とはしていないはず。
じゃ、本当の目的は何なのかというと、「科学的思考の啓蒙」(そんな表現ある?)だと思う。
その「科学的思考の啓蒙」を妨げるものとして、宗教があったり伝統があったりするのだ。(すべての宗教とすべての伝統がそうだと言いたいわけではない。)
だから、宗教を批判したところで「科学的思考の啓蒙」をしたことにはならないわけ。
編者はそのへんのことをごっちゃにして書いている。
/追記

April 1, 2006

宗教どうでしょう

言ってみたかっただけです。