March 17, 2008

出力ばかりだと

MORI LOG ACADEMY: 入力ばかりだと

面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。

入力ばかりだと - www.textfile.org

どうしたら、自分で考える習慣が身につくだろうか。…はい、ここがチャンス。まず最初に、「どうしたら自分で考える習慣がつくだろうか」の答えを自分で考えるところからはじめればよいのではないだろうか。

上記の記事について、ちょっと考えてみる。

まず、森博嗣氏のほう。
自分の内部を探してもおもしろいものなんてまず見つからない。
自分というのはそもそもそれほど特異なものではない。
考えてることなんてみんなだいたい同じ。
おもしろい考え・アイデアが自分の内部から勝手に湧き出てくるなんてことは絶対にない。
そもそも人間の脳みそはそんな不可解なものではないと思う。
今まで脳みその中に存在しなかったものが突然姿を現す、なんてことが起こるわけない。
にしても、自分が思っても見なかったようなアイデアを思いつく(ように思える)時も確かにある。
でもそれは「そんな気がする」だけ。
何かを思いつくためには絶対に外部とのインタラクションが必要だと思う。
人間の思考というものに対する考え方がちょっと短絡的だなと、文章を読んで思った。
「自分の内部」とか「入力」とか、そもそもそいう言葉が何を表すのかをちゃんと理解して文章を書いてるんですか?、と言いたい。
(ま、僕も言葉の用法に関してはかなり適当だけど)
こういう言葉につられる人は多い。
そういう人たちは、「自分の内部」とか「入力」とかいうものをただ想像してしゃべっているにすぎない。
それが何を意味するのかは本当には考えていない。
「他人とは完全に切り離された自分」という存在がどっかにあると思ってるんだろうな。
ま、それはいいや(僕もこのテーマについてはまだあまり考えまとまってないし)。
というか、「入力ばかり」であることについてどうこういうのは筋が違う。
(というか、入力ばかりでも別にいいじゃん、とか思った)
だいたいアレですよ、自分の考えてることなんてほとんど他人の真似でしかなんいんですよ。
他人の真似の寄せ集めこそが「自分」なんです。
他人の思考を足がかりにしないと人間は何も考えられない。
そういう意味で「入力」は必要というよりは、思考のベースになるものであるからして、必須なんです。
つまり、「出力」は「入力」ありきなんですよ。

次、結城浩氏のほう。
上記をふまえて。
「自分で考える」という思考様式があるんだと思う。
「自分で考える」ことができる人は、その思考様式を他人から学んでいるはず。

というわけで、とりあえず他人の真似から入ったらいいのではないでしょうか。
(何に?)

えーと、つまり何が言いたいかと言うと、「自分で考える」っていうのはそんなにとりたてて特別なことじゃない、ということ。
思考様式の一つに過ぎないんじゃないので。
「自分で考えない」というのも場合によってはアリだと思うし。

(終わり)

January 6, 2008

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?

これ読みました(一ヶ月ほど前に)。

脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? ~ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史
前野 隆司

技術評論社 2007-08-02
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かなり面白かったですよ。
哲学的な要素が多かったです。

哲学者との対談なんかも載っていて、それがすごく面白いんです。
斎藤慶典っていう人と、河野哲也っていう人との対談がそれぞれ収録されています。
で、その二人の哲学者の主張が意味不明で面白い。
論点見えなさすぎ。
聞き慣れない言葉とかよくわからない概念を持ち出してきて自己主張しようとするんだけど、僕にも著者にもうまく伝わってない感じ。
なんかこう、科学に対する警戒感がヒシヒシと伝わってくる気がしました。
科学が全てではないことを必死になって主張しようとしているように見えましたね。
あと、河野哲也のアフォーダンスの話はほとんど意味不明でした。
哲学者ってみんなこんなんなの?
著者はよくこんなわけのわからない主張をする哲学者との対談に付き合ってられるなぁ、と関心しましたよ(ちょっと言い過ぎかな)。

ま、それはいいとして、著者が本書で主張しているのはつまりこういうこと。

自由意志は物理世界には存在しない。自由意志は私たちの知覚の中に現象として出現する。私がそれを自由であるかのように認識するから、私たちの共通認識に従ってその機能を自由意志と呼ぶと定義されているにすぎない。

僕もそう思う。
本当の意味での自由意志と言えるようなものは物理的に考えて存在しない確率が高い。
でもだからといって悲しむ必要もないし喜ぶ必要もない話ではある。

その他、興味深いと思ったところ。

ところで、宗教は、悟り型、救い型、つながり型に分けられると言われる(脇本平也『宗教学入門』講談社学術文庫)。

へー、そういわれればそんな気も。

ヒュームは、「自由」という言葉の定義のあいまいさが、自由意志の問題を複雑にしているという。

うん、確かに。

私は心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、(幻想であるところの)意識の現象的な側面が作られていると考える。心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは一種の信念である。

「信念」か。
まあ、そう言うしかないのかもなぁ。

そういえば、ウィトゲンシュタインはこんなことを言っていた。

そもそもわたしが何を信じ、何を確信するか、それが私の思い通りになるだろうか。

この洞察はかなり重要ですよ〜。

あと、本書で紹介されていて面白そうだから読んでみようかなー、と思った本。

なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎 (日経ビジネス人文庫) なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎 (日経ビジネス人文庫)
ダニエル・L. シャクター Daniel L. Schacter 春日井 晶子

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August 2, 2007

読書: 赤を見る

これ読んだ。

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由 赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由
ニコラス ハンフリー Nicholas Humphrey 柴田 裕之

紀伊國屋書店 2006-11
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先に言っておくと、多少なりともおもしろいと思えたのは 5章と6章のみ。
ていうか、まともに理解できた(と思えた)のがこれらの章だけだった。

正直、ものすごい読むの苦痛だった。
とにかく説明が下手。
読んでてイライラする。
大してすごい考えを持っているわけではなさそうなのにもったいぶった喋り、かつ、無駄が多い上に説明不足かつ曖昧な表現が多いために理解しづらい文章。
自分の抽象的な説明に若干酔っているように見受けられるところもあって、引く。
翻訳が悪いというわけではなさそう。
こんなに読みにくい本は久々。

ちょっと言い過ぎた。

著者の主張は次の一点に尽きると思う。

感覚は行為である

それは、例えばこんな感じ。
目の前にあるリンゴがなぜ見えるのかというと、その物体をリンゴとして能動的に見ようとしているから。
カメラでリンゴを撮った場合、カメラはリンゴをリンゴとして認識しているなんてことは当然ない。
人間とカメラではそもそも映像の捉え方が違う。
人間はリンゴをリンゴとして見ようとする。
その行為によって初めてリンゴがリンゴとして見えるようになる。
カメラにはそれが不可能。
なぜなら、人間が行っている「見る」という行為を行えないから。

正常な人間はそもそも「リンゴをリンゴとして見ない」なんてことが不可能。
でも「リンゴをリンゴとして見ること」ができない人がいるらしい。
で、それが「盲視」と呼ばれているらしい。

ふと思ったけど、「盲視」ってそんなに特別な状態でもなさそう。
自分の知らない言語で書かれた文章を目にした時の感覚がこれに近いんじゃないかな。
どういう文字が書かれているかはわかるけど、どういう内容なのかはわからない、みたいな感覚ね。
リンゴがリンゴに見えるのもすごいけど、文章が読めるっていうのも、よくよく考えてみるとすごい能力だよなぁ。

全体として非常に読みにくい印象だったけど、いくつか面白いところはあった。

一つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には、1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は、被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は、映像を取り込むテレビカメラと、それを振動に変換して肌で感じられるようにするために、機械仕掛けのバイブレータをずらっと平面上に並べたものからなり、被験者は、驚くほどわずかの練習をしただけで、触覚情報を使って、周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは、この現象を「皮膚視覚」と名づけ、被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると、何のためらいもなく主張した。
– p.62..63

要は、視覚のためのインプットは必ずしも「映像」である必要はないんですね。
人間はパターンから外界を認識することができるのだと思います。

ていうか、こういう研究事例をたくさん集めて適当に編集するだけでかなり面白い本ができそうな気がするんだけどなぁ。
そんな簡単じゃないか。

フリードリヒ・ニーチェは、意識の根底にある社会的次元を強調し始めた人の一人だった(ただし、その功績を認められることはめったにないが)。彼はこう書いている。「意識は実際のところ、人と人の間のコミュニケーションの網にすぎない。意識はそのようにしか発達しえなかった。猛獣のように群れずに生きる人間だったら、意識は必要なかっただろう」
ニーチェは、そのコミュニケーションの網がどのように作られるかの説明における先駆者だ。

他者を理解すること、それは、その人の感情を自分の内で模倣することで、私たちは……他者の目つき、声の調子、歩き方、挙動を、自らの体で模倣することによって、その感情を自分の中に生み出す。すると、行動と感覚の間にある太古からの連合作用によって、似た感情が自分の内に生まれる。私たちは他者の感情を理解する技術を、完成度の高い次元まで発達させており、他者の前ではつねに、ほとんど無意識にこの技術を使っている。

身体行為の模倣によって共感が生まれるという考えを1880年代に示していたのだから、その先見性には舌を巻く。
– p.115..116

ニーチェすげー!
こんなこと考えてたんだ。

ま、最後の方はそこそこおもしろかったので、最後まで読んで良かったなと思いました。

July 19, 2007

なぜ「犬が吠えた」という文で「犬が吠えた」ということを言い表せるのか

突然ですが、

犬が吠えた。

この文は何を言い表しているのでしょうか。

「犬が吠えた」ということを言い表していますよね。
そんなの子供でもわかると思います。

問題は、なぜ「犬が吠えた」という文で「犬が吠えた」ということを言い表せるのか、なんです。
なぜ「犬が吠えた」という文が「犬が吠えた」という意味をもつのか。

逆に、「犬が吠えた」という文が「犬が吠えた」という意味を持たないことってあるんですかね。
ないですね。

結論:
「犬が吠えた」という文は常に「犬が吠えた」という意味を持ちます。
これがウィトゲンシュタインが『論考』で言っていたことで、また、なぜそうなるのかは語り得ない、とも彼は言います。
それが「言語」の「事実」である、と。

たぶん。。。

自分と他人の違い

独我論は嫌いなんですが、「私」って一体何なのか、ということはいつも考えてます。
「私」って、考えれば考えるほど特異な存在ですよね。
他人と自分は同じ「人間」である、ということは言えますが、存在としては同じどころか全然違いますよね。

他人であるAさんと、同じく他人である B さんがいたとして、A さんと B さんの違いと、自分と A さんまたは B さんとの違いってまったくレベルの違うものですよね。

others.png

絵描いたら疲れた。

追記:
絵を描いたついでにブログのデザインを若干変更。

July 18, 2007

読書: ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか

これをナナメ読みした。

ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか
入不二 基義

日本放送出版協会 2006-05
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ウィトゲンシュタイン哲学の主に前半部分に的を絞り、かつ、そのなかでも独我論に焦点を当てて考察してる。

この本のテーマは、ウィトゲンシュタインの「私」をめぐる思考を追いかけることであり、それのみに集中しようと思う。

— p.8

ざーっと流して読んでみたんだけど、なんだか理屈っぽくて読みにくい印象を受けた。
いかにも哲学者が書いた本という感じがした。
あくまで主観だけど。

「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」というタイトルだけど、結局これについて著者が何を言いたかったのかはわからずじまいだった。

ウィトゲンシュタインは、その生涯の哲学を通じて、独特のやり方で「私」の消去を試みた。それは、「私」など大した存在ではないと考えるからではなく、むしろ逆である。強度があまりにも大きいからこそ、「私」は消え去り見えなくなるのがふさわしい。「私」はすべてであるからこそ、「私」は無に等しいのである。

— p.8

ウィトゲンシュタインは「私」というものに執拗にこだわりそれを哲学から除外しようとした、というのが僕の認識。
入不二基義氏の主張は、「私」は哲学から除外できないのではないか?、というものなのかな。
どうなんだろ。

確かに「私」というのはものすごく特別なものだとは思います。
「結局、『私』が見ている『この世界』こそが本当の世界なんだ」とか考えることも可能です。
でも、本当にそういう純粋な独我論的思考を持ってる人間なんて存在しないと思います。
口では「独我論」だ何だと勝手なことを言っても、それを本当に信じているひとなんていない。
検証できるような類いのものじゃないし。
そういう意味で独我論って不毛。

自分以外の人間だって自分と同じようにこの世界に存在している。
そんなことは考えなくてもわかるよね。
この「考えなくてもわかる」っていうのがミソ。
自分だけが特別なんてことはありえない。

だから、入不二基義氏の「私は消去できるか」という問いにはこう返答したい。
「そこで言われている『私』ってのがそもそも幻想なんじゃないですか」と。
ま、僕が考えるようなことは著者もすでに考えている可能性が高いけど。

独我論なんて持ち出してくると話がそこで終わってしまいます。
哲学というのはそんな独りよがりな議論をする場所ではない気がします。
「私」が「この世界」から姿を消しても「この世界」が無くなるということはありません。
世界は、私が存在するか否かに関わらず存在する。
私が消去されても世界は同じように存在し続ける。
だとするなら、「『私』は消去できる」と言えるんじゃないですかね。

ちょっとこじつけ。。。

July 15, 2007

ウィトゲンシュタインの「私的言語」と「独我論」にまつわる話は本当に難しい

ウィトゲンシュタインの「私的言語」と「独我論」にまつわる話は本当に難しい。
でもそこがキモなんだけど。

ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義:DESIGN IT! w/LOVE

このブログの人は人間社会における「公」に対する「私」というものについて、ウィトゲンシュタインの哲学を持ってきて考察しているわけなんだけど、若干論点がずれてる気がする。
そこは置いておくとして、ウィトゲンシュタインの「私的言語」に関する主張は、
人間の思考そのものが人類が作り上げてきた「言語ゲーム」によって成り立っているがために私的言語はありえない
というものだと僕は認識してる。
で、以下の引用を見てほしいんだけど、

別の言い方をすれば「私的言語」はいつまでも捕獲されずに逸脱し続ける。一般的にはだからこそ「私的言語」は存在しないという結論が導かれますが、この本ではこうした逸脱こそが「私的言語」であるのではという考察が行われています。

ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか/入不二基義:DESIGN IT! w/LOVE

この文章の論理構造をわかりやすくするとこうなると思う。

「私的言語」は逸脱し続ける

↓

逸脱し続けるから「私的言語」は存在しない

↓

そうした逸脱こそが「私的言語」なのでは?

意味がわかりません。

いや、ま、言いたいことはわかりますが、そもそもその「逸脱」という「思考」を我々が共有できている時点で「私的言語」じゃないじゃないですよね。
ていうか、読んでみよう、「ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか」。

追記:
もうちょっとよく考えてみる。
『論考』に登場するウィトゲンシュタインの以下の命題がここでは重要ですね。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する

入不二基義氏はこの命題にだいぶとらわれている気がします。
ちなみに、この頃のウィトゲンシュタインはまだ「言語ゲーム」という着想を得ていないです。
ウィトゲンシュタイン自身、独我論にまつわる入不二基義氏と同様の考察を当然行っているんじゃないでしょうか。
それをふまえた上で「言語ゲーム」を中心とした後期の思想が形作られていったんだと思います。

『論考』5.6の「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」という命題に示されている言語的主体をめぐるウィトゲンシュタインの思考の根底には、我々の言語は相互に完全に伝達可能な部分と完全には伝達できない部分から成り立っているという直感が存在する。
(強調は原文のまま)

ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951

入不二基義氏の言う「私的言語」は、上の引用部分で言われている「完全には伝達できない部分」のことですね。
「言語ゲーム」という考え方は、そもそもそういった「私的な言語」が存在しないことを前提としています。

ていうか、入不二基義氏の主張は「独我論」にどう決着をつけるか、というところに行き着く気がします。
となると、「独我論」というスキームに絞って話を進めた方が良いです。
結論を言うと、独我論的な思考は「言語ゲーム」が生み出す「錯覚」です。

もうちょっとうまく説明できないかな。