面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。
どうしたら、自分で考える習慣が身につくだろうか。…はい、ここがチャンス。まず最初に、「どうしたら自分で考える習慣がつくだろうか」の答えを自分で考えるところからはじめればよいのではないだろうか。
上記の記事について、ちょっと考えてみる。
まず、森博嗣氏のほう。
自分の内部を探してもおもしろいものなんてまず見つからない。
自分というのはそもそもそれほど特異なものではない。
考えてることなんてみんなだいたい同じ。
おもしろい考え・アイデアが自分の内部から勝手に湧き出てくるなんてことは絶対にない。
そもそも人間の脳みそはそんな不可解なものではないと思う。
今まで脳みその中に存在しなかったものが突然姿を現す、なんてことが起こるわけない。
にしても、自分が思っても見なかったようなアイデアを思いつく(ように思える)時も確かにある。
でもそれは「そんな気がする」だけ。
何かを思いつくためには絶対に外部とのインタラクションが必要だと思う。
人間の思考というものに対する考え方がちょっと短絡的だなと、文章を読んで思った。
「自分の内部」とか「入力」とか、そもそもそいう言葉が何を表すのかをちゃんと理解して文章を書いてるんですか?、と言いたい。
(ま、僕も言葉の用法に関してはかなり適当だけど)
こういう言葉につられる人は多い。
そういう人たちは、「自分の内部」とか「入力」とかいうものをただ想像してしゃべっているにすぎない。
それが何を意味するのかは本当には考えていない。
「他人とは完全に切り離された自分」という存在がどっかにあると思ってるんだろうな。
ま、それはいいや(僕もこのテーマについてはまだあまり考えまとまってないし)。
というか、「入力ばかり」であることについてどうこういうのは筋が違う。
(というか、入力ばかりでも別にいいじゃん、とか思った)
だいたいアレですよ、自分の考えてることなんてほとんど他人の真似でしかなんいんですよ。
他人の真似の寄せ集めこそが「自分」なんです。
他人の思考を足がかりにしないと人間は何も考えられない。
そういう意味で「入力」は必要というよりは、思考のベースになるものであるからして、必須なんです。
つまり、「出力」は「入力」ありきなんですよ。
次、結城浩氏のほう。
上記をふまえて。
「自分で考える」という思考様式があるんだと思う。
「自分で考える」ことができる人は、その思考様式を他人から学んでいるはず。
というわけで、とりあえず他人の真似から入ったらいいのではないでしょうか。
(何に?)
えーと、つまり何が言いたいかと言うと、「自分で考える」っていうのはそんなにとりたてて特別なことじゃない、ということ。
思考様式の一つに過ぎないと思うので。
「自分で考えない」というのも場合によってはアリだと思うし。
(終わり)





