July 6, 2006 at 23:57 , Tags:
ソフトウェア,
ハードウェア,
開発,
読書,
IT
今これ読んでるけど、すごく面白い。
ユーザーインターフェイスについていろいろ考えさせられる。
バッドノウハウ的な要素も絡んでくる。
プログラマの心理を良く突いていて面白い。
そういえば「プログラマの心理学」って本が家にあるけど、途中までしか読んでないな。今度読も。
以下、ポール・サッフォーって人が書いてる序文から引用。
命からがら逃げ出せ——コンピュータの侵略だ!すさまじくプワフルなコンッピュータが、ますます重要な仕事を、使いにくい古くさいインターフェイスで処理するようになってきた。こうしたマシンが生活のあらゆるすみずみにまでしみこんでくるにつれて、それはわれわれをいらだたせ、おこらせ、何人かを殺してしまうことだってあるだろう。そのおかえしに、われわれはコンピュータを殺したくなるのだけれど、でも殺したりはしない。われわれはすでに完全に、ひきかえせないくらいにこの希望に満ちた化け物に依存するようになってしまっているからだ。これがあるからこそ、現代生活が可能になっている。
アマゾンのレビューを見てみると、訳者(山形浩生)によるの翻訳や「あとがき」に不快感を抱いた、という人が何人か見受けられる。
てことで、「あとがき」を読んでみたけど、そんなに悪い内容とも思えないんだけどなぁ。
せっかくだから、「訳者あとがき」からちょっと引用してみる。
はじめのうちは、要するに著者の会社を雇え、と言っているようにしか本書は読めない。これだけの技能をそなえた人間がそう転がっているとは思えない。そして確かにクーパーはデザイナーはだれでもなれるものじゃない、というようなことも言う。プログラマはデザインはできない、と著者は主張する。そりゃそうだろうなあ、単に観察力や分析力だけでなく、すさまじい対人能力、弁舌、交渉力と調整能力、政治力がないとこんな仕事は勤まるまい。たぶんウチの小渕総理なんかじゃ無理だぞ、これ。でもそんな技能保持者を養成しないとダメなら、ソフト製品って永久に絶望なんじゃないの?
ま、それは確かに現実問題としてそう思う。
後で、もうちょっと何か書く。
ていうか、まだ5分の1くらいしか読んでない。
June 27, 2006 at 23:10 , Tags:
どうでもいいこと,
人間
柳沢への非難に対し、「柳沢は悪くない」とか、「じゃ、おまえやってみろよ」とか言う人がいる。
ま、なんか、ありがちな構図。
そこには欠けている視点がある。(たぶん)
それは「柳沢本人がどう思っているか」ということ。
ていうかね、自分が失敗したときに誰にも責められたり叱られたりしないとしたら、こんなにつらいことはないかもしれないですよ。
例えば、どんな失敗をしても「お前は悪くない」とか周りの人間が言うんですよ。
僕だったら嫌ですね。
…
とか、数時間前に思った。
June 27, 2006 at 23:35 , Tags:
読書,
思想,
人間
これ読んだ!
なかなか面白かった。
やっぱ内田樹は表現がうまいなぁ、と感心することしきり。
以下、まえがきより引用。
私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなくて、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、これがここまで書いていたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。
これにはすごく同感。
ていうか、なにかを書くにあたって、これほど都合の良い前置きはないよね。
僕もこういうスタンスでブログを書いている、ということにしておこう。
内田樹はこう続ける。
それと同じように、「ウチダ、それは違うよ」と私に告げる人の言葉に私が注意深く耳を傾けることがあるとしたら、それはその人の頭の中にある考えを知るためではありません。
だって、その人がほんとうに批判的に豊かな情報を発信しているとすれば、それはそのことを語りつつある本人もまだ知らないことであるはずだからです。
人の話を聴くというのは、自分が何を言いたいのかをまだ知らない人が口を開くその現場に立ち会うことです。知が生成している当の現場に立ち会うということです。
聴き手である私はこの生成プロセスの立会人であり、その人が今語りつつあることばが含んでいる「私についての知」の共同署名人です。なぜなら、その人が「自分が何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのはほかならぬこの私の存在なんですから。
私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。
これが肝心なことです。
あとで追記するかも。
追記:
せっかくなので、もうちょっと引用してみよう。
命の尊さとか大地の恵みとか、定型的な言い方はいくらでもあるが、自然から子供が学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。
(略)
都会にいるときに不快を感じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
(p.29)
自然は良いよなぁ。
言語的なコミュニケーションの場においても、複雑な音のまじりあう「交響楽」を語れる人と、単純な音しか出せない人がいる。その違いは聴けば分かる。言っている内容がどれほど整合的でも、どれほどアーティキュレーションがクリアーカットでも、薄っぺらな声は、結局私たちの耳には届かない。そこに「響き」がないからだ。
(p.76)
ありがちなことしか言わない人と喋っててもつまらないよね。
あなたがたは私の弟子ではない。だから、あなたがたが私から学んだと思っていることは、あなたがたが進んで「学んだ」ことであって、私が「教えた」ことではない。
いくつもの証言を通して私に聞こえてくるのは、甲野先生のそのようなことばである。
人は「教えない」先生に就いたときにこそもっとも多くを「学ぶ」ことができる。
甲野先生はそのことを熟知されているように私には思われる。
(p.154)
そうなんだよなぁ。
June 22, 2006 at 22:52 , Tags:
社会,
人間
アンカテ(Uncategorizable Blog) - SEは仕事の価値に見あった月給を取れ2
世の中にはソフトウエアの開発手法というものが数多くあるが、大半は、松井がホームランを打ったフォームを分析して同じスイングをするにはどうしたらよいかを論じているにすぎない。つまり、あるボール(仕様)に対してどのような角度でバットを出せば球が遠くに飛ぶかを分析しているのである。
[via del.icio.us/skoji]
良い例えだ。
ダメな人ってのは、目に見えるものしか見ていないのだ。
物事の本質が見えていない、もしくは見ようとしていない。
多分。
…
「物事の本質を見抜く能力」というのは、仕事においてすごく活きてくる。
フレームワーク等を使うにしても、その本質を見抜けないと使いこなせないよね。
あんまり書くことないな。
June 21, 2006 at 23:00 , Tags:
宗教,
人間
注: 偏見を多く含みます
はちことぼぼるの日記 - 無神論者との対話
パスターが今回の対話で成し遂げたのは、無神論者の疑問や反論に論理で対抗し相手を納得させることではなく、たとえ自分とは信仰や考え方がまったく違う人とであっても、敬意と誠実をもって相手に関心を示し、心を開いた対話をするとはどういうことかを、その場にいた人たちに実地で示したことだった。クリスチャン同士であっても、神学的立場が違ったりすると冷静な議論ができなくなる人は少なくない。見る人がつまずきそうな陰険なやり取りがなされることだってある。しかし、パスターとHemantのやり取りにはまったくそういうところがなかった。
パスターさんとHemantさんのどちらが人間として優れているかというと、明らかにHemantさんのほうだ。
なぜなら、パスターさんは「受け身」でしかないから。
Hemantさんの「積極性」がすばらしいのだ。そこはパスターさんも見習うべきだ。
Hemantさんのように、自分の知らないことをもっと積極的に知ろうとすべき。
そのためにはキリスト教徒をやめることもいとわないという姿勢を持つべきなんじゃないか。それは言い過ぎか。
パスターさんはHemantさんに対し、ただ真摯に応対しただけ(だと思う)。
それは他人とコミュニケーションするときのごくごく普通の姿勢。
相手のことを極力理解しようとつとめた。ただそれだけのことではないのか。
それを「すごいすごい」とか言って。
キリスト教徒のレベルってそんなもんなのか。
他人の意見を受け入れ、自分が間違っていると思えることがあれば認める。そういう基本的なことができないんだろうな、キリスト教の人って。
だから「すごいすごい」言ってるんだろうな。
世界が狭い。
[via [結] 2006年6月 - 結城浩の日記 - 無神論者との対話]
June 20, 2006 at 17:43 , Tags:
仕事
スピード(速度)だけが重要なのではないですよ、という話。
車に例えるなら、目的地を目指してただスピードを出すだけじゃなくて、近道がないかとか、そもそもその目的地が正しいのかってことを考えるべきですよね。
June 19, 2006 at 23:24 , Tags:
どうでもいいこと,
人間
マインドマップは見た目が気持ち悪いのでやだ。
なんとなく。

でもやってみると、考えがまとまるような気もする。
ていうか、物事を考えるにあたって、書く行為そのものが有効なのだと思う。