信仰を持つ人は、「私の神」という感覚を持っていたりするかなぁ。
それとも、他の人と同じ「みんなの神」という感覚なのかなぁ。
神を共有するみたいな感覚だったりするかなぁ。
実際に聞いて確かめたい。
ツッコミ歓迎!
追記:
タイトルおよび本文を若干修正しました。
信仰を持つ人は、「私の神」という感覚を持っていたりするかなぁ。
それとも、他の人と同じ「みんなの神」という感覚なのかなぁ。
神を共有するみたいな感覚だったりするかなぁ。
実際に聞いて確かめたい。
ツッコミ歓迎!
追記:
タイトルおよび本文を若干修正しました。
アマゾンで同じ商品を2回注文してしまっていた。
「順列都市〈下〉」。
早く気付けば注文取り消せたんだけど、もう発送されてしまったしまっていた。
地味にショック。
初めに注文した本のほうが遅れて届いた。
この本を初めにアマゾンで見たとき「発送に数週間かかる」みたいなことが書いてあったから、気長に待つつもりで他の何冊かの本と一緒に注文してたんだな。
で後でアマゾン見たら「通常24時間以内に発送します。」というステータスに変わってて、前に注文したのを忘れて注文しちゃったんだな。
「この商品は前にも一度購入してるけど、また購入するの?」みたいなことを言ってくれたらいいのになあ。
追記:
お笑いパソコン日誌より
… たとえば「本のおすすめ」に、つい最近アマゾンで買った本などがリストされてるショップで、そんな気の利いたサービスができるとは思えないと、思うのね。
それ、僕も考えました。
「一冊でも多く売れればそれでいい」なんて考えてたりしたら嫌ですねぇ。
Amazon に頼る以外に何か良い方法がないか、ちょっと考えてみます。
以下はAnonymous さんからいただいたコメントへの回答です。(Anonymous さんって呼び方も変だな)
Anonymous さん、コメントありがとうございます。
できれば、どの部分あるいはどういう主張に対してそのように思われたのかを教えていただけるとありがたいです。
では順を追って回答します。
すごく空論ぽいです。
僕はそうは思いません。
自分にとって意味のない議論だとは思えません。
他人にとってどうなのかは知りませんが。
ちょっと捕捉させてください。
僕は、「人が物事を信じるというのはどういうことなのか」ということを以前から考えてきたんですよ。
なぜ人は、明確な根拠を示せないにも関わらず確信を持って「私はそれが真実だと思う」と言えるのか、とかそんなようなことを。
いわば認識論的な考えですね。参考: 認識論 - Wikipedia
そういった考えが背景にあって当の文章は書かれました。
人が「私は神の存在を信じています」という時、それはその人にとっては紛れもない「事実」なんだと思います。
そして、どんなに他人が説得しても絶対に考えを変えない人が少なからずいます。もう根拠も何もなくてもとにかく信じているというような状態なんだと思います。
ここで僕が思うのは、「○○という根拠があるから△△は事実だ」ってのも、実は上にあげたような「根拠無く何かを信じている」ってのと変わらないのではないか、ということです。
「○○という根拠があるから△△は事実だ」と言っている人は、「○○という根拠があれば△△は事実だということが言える」ということを根拠無く信じているのではないか、と。
話がややこしくなってきましたが、そういったことに僕はすごく興味があるんですよ。
ドーキンスも同じようなことを考えている気がします。
そしてドーキンスはその問題の難しさもよく理解しているんじゃないかと。
だからあえて、あの文章は娘という一個人に向けて書くという体裁をとった。そんな気がします。
(これは単なる僕の空想に過ぎません。ドーキンスに関してはこれからいろんな著書に当たってみるつもりです。)
真摯さが感じられません。
それは主観の問題だと思いますよ。
僕をただの「屁理屈野郎」などとは思わないでください。(もしそう思っているのなら)
この記事に書いたことは僕にとっては切実な問題なのです。
それをうまく伝えられないのは僕の文章力の無さのせいです。
ちなみに、僕の寒いジョークに深い意味はないので読み飛ばしてください。:-)
ちょっと面白いゲームくらいにおもってますよね。
思っていません。
仮にゲームとしてとらえたとしても、あまり面白くはありませんし。
読んでるほうはいらいらしますが。
いらいらさせて申し訳ありません。
是非その理由を詳しくお聞かせください。
もうちょっと問題領域を理解してから考えてもいいのではないかと思います。
現在、その「問題領域」をよりよく理解しようと、いろいろ調べている最中です。
で、当該記事では「今、僕が考えてること」を書きました。
それが不満だったのですか?
宗教と伝統の関係なんてそんな簡単なものじゃないですよ。
念のために言っておくと、僕は当該記事で「人が宗教を信じるのは、それが伝統だからだ」という考えに疑問を呈したつもりでした。
だから、「宗教と伝統の関係なんてそんな簡単なものじゃない」というのには僕も同感です。
というより、まさにそのことを言いたかったのです。
おそらく僕の書いたこの文章が諸悪の根源という気がしてきました。
「人が宗教を信じるのは、それが伝統だからなのか?」と僕は考えました。
この文章は最低です。
僕が本当に言いたかったのはこういうことです。
「人が宗教を信じるのは、それが伝統だから」というのは本当なのか?と僕は考えました。
決して「人が宗教を信じるのは、それが伝統だからなんじゃないの?」などと言いたかったわけではありません。
それだと後の文章と矛盾してしまいますから。
特にこの部分と矛盾します。
なにかの宗教に信仰を持つ人の多くは、「それが伝統だから」という理由でその信仰を持っているのではないと思うんですよ。
理解していただけました?
文章が悪くて大変申し訳ありませんでした。
以後気をつけるようにいたします。
…
回答は以上です。
なんか的外れなこと言ってます?
これに対する Anonymous さんの感想を是非聞かせてください。
ではコメントお待ちしております。
追記: この記事はまだ書いてる途中だったんですけど、諸般の事情によりこの状態で凍結することにしました。
宗教と伝統についてこれからしばらく考えることになりそうです。
「人が宗教を信じるのは、それが伝統だからなのか?」と僕は考えました。
ま、なんにでも因果関係を見いだそうとするひとからすればそう見えるのかもしれません。
しかし僕はこう思うのです。
ある人が宗教を信じる理由が「それが伝統だから」というものであったとして、じゃあはたしてその「伝統」というものをすべて「無かったこと」にしたら、その人は信仰を捨てるのか?と。(うーん、文章悪い。)
なにかの宗教に信仰を持つ人の多くは、「それが伝統だから」という理由でその信仰を持っているのではないと思うんですよ。
その「きっかけ」は、「伝統」もしくは「フジテレビ」だとは思うのですが。
(↑ジョークね、これ。「フジテレビ」っていうとこ。ここ笑うところだから。)
「ものごとを信じる」というのは因果関係だけでは説明できない。
だから「何度説明してもダメな人」がいるんですね。
おそらくそういう人は「世界観」が固定されちゃってるのだと思います。
そういう人に対して「伝統」うんぬんの話をしても聞く耳をもたないでしょう。
人は究極的には「自分が何を信じるか」を自分では決められないと思います。
子供は親の言うことをまず無条件に信じるでしょう。
それを後でくつがえすことって相当難しいと思うんですよね。
いや、多くの人にとってはほとんど不可能とさえ言えるかもしれない。
「君はね、何の根拠もなしにそれを信じているんだよ。一番はじめにそう教わったからね。でもね、それはただ単に今までみんなそう教わってきたから君にもそう教えたという、それだけの理由しかないんだよ。それはただの伝統なんだよ。」
こんなふうに言ったとしても、わからない人にはわからない。
僕が知りたいのは、ドーキンスの主張のターゲットとなるのがどういった人たちで、彼のアプローチの仕方はあれで良かったのか?ということ。
(↑やっぱりドーキンスの話になるか!)
いや、でも多分ドーキンス自身、あの主張のターゲットが曖昧なものであることは自覚していただろうな。
ああ、そうか、だから娘に語るという内向きな形式をとったのかな。
あれはドーキンスの「願い」であると。
そういうことなのかな。
(どうも僕は理路整然とした文章を書くのが苦手だ。)
この記事のコメントへの回答です。
シダさん、コメントありがとうございます。
まずはじめに理解していただきたいのは、僕はただ単に屁理屈をこねるためだけにブログに何かを書いたりするようなことはしない、ということです。
では疑問にお答えします。
> わかりやすく書くことで何か変化するでしょうか。
「あなたの言っていることは所詮間違っているのだから、わかりやすく書いたところで何が変わるのですか?」ということが言いたいのですね?(違うのであれば訂正します。)
あれは、satolog さんのことばを借りるなら、「妄想で批判したつもりになっているところが愚かでバカで最低だ」ということをわかった上で僕は書いているということをちゃんと書くべきだったということです。
「それは言われるまでもなく自分としてもわかっていることですよ」と言いたかったのです。
僕がもっとわかりやすく書いていれば satolog さんの手を煩わせることもなかったんじゃないか、と。
この点に関しては理解していただけましたか?
では次。
> どうも私には文章中の宗教批判が見つけられません。カトリックのよくない部分などが例としてあげられているのはわかりますが、信仰を持つことを否定されているのでしょうか。
「あなたはドーキンスが宗教批判をしているとことさらに強調していますが、ドーキンスは宗教または信仰そのものを否定しているわけではないのでは?」ということを言いたいのですね?(違うのであれば訂正します。)
なるほど、そういう意見もあるでしょう。
しかし僕はあえて「なぜドーキンスが宗教の話を持ち出したのか」というところにフォーカスしたわけです。
ドーキンスが意図的に「宗教」を例としてあげているように見えて、それが気になったんですよ。
ていうか、あれは明らかに意図的ですよね。違いますか?
「宗教」というのは人によってとらえかたがまちまちだと思うので、安易に「宗教」を例としてもってくることによって論点がずれてしまうんじゃないか?と思いました。
しかも、日本においてならまだしも、欧米においてですよ?
「何を信じ、何を疑うべきか」というような話をするときに、よりによって欧米人にとって特にデリケートな問題である宗教の話をもちだしているんですよ?
僕にとってはどうしてもそこが引っかかりました。
ドーキンスが過激な無神論者として知られているという事実も後押しして。
しかし、宗教というのが欧米人にとって身近な話題だから例としてとりあげられたのだ、ということも考えられるでしょう。
僕は前の記事でそのようなことに関しても言及しています。
それがこの部分。
宗教は欧米人にとってすごく身近な話題だから、「何かを信じるとはどういうことか」というような議論をするときには格好のサンプルになるわけか。
僕はそこからさらに考えを進めました。
それがこの部分。
また、世界を認識するその「手法」が「伝統」として受け継がれていて、それがあるときには「宗教」という形になるのだと考えると、ドーキンスの宗教批判も的を得ていると言える。
これこそが、ドーキンスが「伝統」と「宗教」をごちゃ混ぜにして論じていることの説明になるのではないか、と考えました。
おそらく、欧米においては宗教と歴史が渾然一体となっているんですよ。日本以上に。
ほとんど「伝統」イコール「宗教」、「宗教」イコール「伝統」なんですね。
そして僕はそのことを前提とせずにあのドーキンスのエッセイに言及する記事を書いたわけなんです。
「伝統と宗教ってのはそもそも違うものだろ」ってのが僕がまっさきに考えたことで、欧米の文化や歴史そっちのけで議論を展開してしまいました。
> 感謝と反省以外の内容がよくわからず、書き込ませていただきました。
何を言いたいのかがよくわからないのは、僕の文章が悪いせいだと思います。精進します。
このコメントに関してもよくわからないところがあればご指摘ください。
真摯ですばやい対応ありがとうございます。
なぜわざわざそんなことをやるかと言うと、その方が読んだ人に僕の立場が伝わりやすいからです。プレゼンの方法です。
… 僕はなるべく発言内容で判断して、人で判断しないように心がけています。dqn は jugyo さんの発言であって、jugyo さんではありません。
そうでしたか。了解いたしました。
あと、僕が仮に貶されても、なるべくどんな理由で貶されているかを考えて(よい理由をその中に見つけて)、それを将来自分の利益にできたらなぁと思っています。
これには同感です。
だからああやってコメントを書いたわけです。
… jugyo さんの「「無神論」ってことはつまり「神」が「無」であって、要するに「神は存在しない」と言いたいわけだよね。」みたいな発言を読んで、なにも調べずに、ドーキンスの著作も読まずに、妄想で批判したつもりになっているところが愚かでバカで最低だと思いました。
これはドーキンスの無神論に対してではなく、無神論一般(これ自体がそもそも僕の妄想の産物なのですが)に対しての僕の感想です。
不可知論に近い考えだと思いますが、ま、思考実験的なものなのであまり気にしないでください。
あと、「ドーキンスの著作も読まずに、妄想で批判したつもりになっている」というのはまさにその通りで、自分でもそれはわかっているつもりです。
でも、その時思ったことをその時書くほうがタイムリーで良いですよね。そういうノリで書きました。
にしても、もっとわかりやすく書くべきだったと反省しています。
2つめにひっかかったのは、「「伝統」ってのを持ち出してきて宗教を批判しようとしてるところがすごくナンセンスだと思った。」という発言。僕はこの発言がナンセンスだと思います。これはドーキンスが記事の中でどういう意味で「伝統」という言葉を使っているかを理解してないのだと思いました。
「宗教」や「信仰心」ってのは、「伝統」だけで説明できるものじゃないと思うんですよね。それが言いたかったんです。
人が「宗教」や「神」を信じるのは「伝統」というのとは違った根拠があるのではないか?と考えたわけです。
いや、そもそも僕が根本的に勘違いしているのかも。
ドーキンスは、僕が読み取ったのとは逆で、「宗教」を例に挙げて「伝統」を批判しようとしたのかな。それなら納得できる。
おそらくドーキンスは「宗教」という言葉を限定的に用いていますよね。
そこんところが僕がひっかかった原因だと思います。
伝統にはいいもの — 例えば言葉 — も悪いもの — 例えば「全ての精子は神聖で偉大だ」(モンティ・パイソン『人生狂騒曲』を見てください)という信仰 — もあります。なぜなら、伝統はたんに上の世代から次の世代へと伝えられてきたものだからです。ドーキンスは、それだけでは信じるのによい理由じゃないね、と言っているのです。
なるほど。しかし、だとするなら、「宗教」ではなく「伝統」のほうを批判すればいいわけですよね。
あの文章でドーキンスはその辺を曖昧にしている気がします。そこがひっかかりました。
それとも、欧米的な感覚からすると「伝統」イコール「宗教」なのでしょうか。その辺に関してはあまり詳しくないので僕の勘違いがあるかもしれません。
あ、わかった。
宗教は欧米人にとってすごく身近な話題だから、「何かを信じるとはどういうことか」というような議論をするときには格好のサンプルになるわけか。
また、世界を認識するその「手法」が「伝統」として受け継がれていて、それがあるときには「宗教」という形になるのだと考えると、ドーキンスの宗教批判も的を得ていると言える。
なんだ、そういうことか。
… ドーキンスのことを「 特定の宗教に信仰を持つ人のことを本当に理解しようとしたことがない人」と言っただけで批判したつもりになって、自分の代案を提案しないのは、無責任で、怠慢で、知的誠実さのかけらもないと思いました。
おっしゃる通りだと思います。
確かに、ドーキンスもこの手紙をもっとやさしく書けたかもしれません。 [略] でも、ドーキンスは、このメッセージをジュリエットに本心から伝えたかったのだろうと思います。
ああ、俺はなんて最低な人間なんだ。orz
ドーキンスの、父親としての娘に対する愛情を読み取ることができなかった。
「なぜ子供が信仰を持つかについて」のくだりを読むだけでもそれはあきらかなのに…。
この点に関しては激しく反省している次第であります。
ま、なにはともあれ、すごく勉強になりました。
真摯な反応をしていただいてありがとうございます。
こういうったやり取りも「dqn」というタグが付けられなければありえなかったわけで、その意味では「dqn」は正解だったのかもしれませんね。w
なんかおかしなところや気になるところがあればご指摘ください。