メモ:
文法のさらにもう一段階上の規則がある。
という考え方はどうか。
この本から着想を得た。
![]() |
ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951 鬼界 彰夫 講談社 2003-07 |
例えば以下の二つの文章。
(1) 山田君が痛がっている
(2) 石が痛がっている
どちらも文法的には同じ規則に従って作られているけど、(2) の方の文章はなんか変。
というか状況的にあり得ない。
ま、百歩譲ってそういう表現もありだとして、じゃあ次の文章はどうか。
(3) 赤が痛がっている
色が痛がるなんてそんなバカな!、って感じですよね。
こういう文章を見て「こんな文章はナンセンスだ」なんてことは簡単に言えると思うんですけど、それ以上に、(2) や (3) を見て「そんな表現は絶対にありえない」ときっぱりと言いたくなるような、そんな「信念」に近いものを僕は感じます。
なにがそう感じさせるのか。
文法のさらにもう一段階上の規則がそう感じさせるんです。
「もう一段階上」ってのが微妙な表現だけど。
「痛がっている」とか「痛がる」という語の運用ルールがすでに集団の中で決められているんですね。
人類はそういったルールを脈々と受け継いできているわけです。
世界を認識する方法として、そのルールを共有しているんです。
例えば、ある対象を自分が理解しているとき、それは、「自分」が理解しているというより、「自分」が所属している「集団」がそう理解している、ということなんです。
だから、自分だけの完全にオリジナルな「理解」というのはあり得ないんです。
思考のフレームワークにおいてその動作は不可能なんです。
宗教なんかも、世界を認識するために編み出された思考のフレームワークのひとつなんだと思います。
そう考えると、宗教と僕の思考はたいして違わない気もしますが、自分で自分を改良できるかどうかの違いはある気がするというか、あってほしい。

