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態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い 内田 樹 角川書店 2006-04 |
これ読んだ!
なかなか面白かった。
やっぱ内田樹は表現がうまいなぁ、と感心することしきり。
以下、まえがきより引用。
私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなくて、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、これがここまで書いていたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。
これにはすごく同感。
ていうか、なにかを書くにあたって、これほど都合の良い前置きはないよね。
僕もこういうスタンスでブログを書いている、ということにしておこう。
内田樹はこう続ける。
それと同じように、「ウチダ、それは違うよ」と私に告げる人の言葉に私が注意深く耳を傾けることがあるとしたら、それはその人の頭の中にある考えを知るためではありません。
だって、その人がほんとうに批判的に豊かな情報を発信しているとすれば、それはそのことを語りつつある本人もまだ知らないことであるはずだからです。
人の話を聴くというのは、自分が何を言いたいのかをまだ知らない人が口を開くその現場に立ち会うことです。知が生成している当の現場に立ち会うということです。
聴き手である私はこの生成プロセスの立会人であり、その人が今語りつつあることばが含んでいる「私についての知」の共同署名人です。なぜなら、その人が「自分が何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのはほかならぬこの私の存在なんですから。
私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。
これが肝心なことです。
あとで追記するかも。
追記:
せっかくなので、もうちょっと引用してみよう。
命の尊さとか大地の恵みとか、定型的な言い方はいくらでもあるが、自然から子供が学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。
(略)
都会にいるときに不快を感じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
(p.29)
自然は良いよなぁ。
言語的なコミュニケーションの場においても、複雑な音のまじりあう「交響楽」を語れる人と、単純な音しか出せない人がいる。その違いは聴けば分かる。言っている内容がどれほど整合的でも、どれほどアーティキュレーションがクリアーカットでも、薄っぺらな声は、結局私たちの耳には届かない。そこに「響き」がないからだ。
(p.76)
ありがちなことしか言わない人と喋っててもつまらないよね。
あなたがたは私の弟子ではない。だから、あなたがたが私から学んだと思っていることは、あなたがたが進んで「学んだ」ことであって、私が「教えた」ことではない。
いくつもの証言を通して私に聞こえてくるのは、甲野先生のそのようなことばである。
人は「教えない」先生に就いたときにこそもっとも多くを「学ぶ」ことができる。
甲野先生はそのことを熟知されているように私には思われる。
(p.154)
そうなんだよなぁ。

