タイトルが大げさな割に内容は大したことないのであしからず。
言葉の力は作者の統御を超える。
テクストはしばしば作者自身よりもはるかに豊かであり、奥行きがある。それはテクストが作者自身の豊かさや奥行きを文字に「翻訳」してできあがるものではないからである。
ここがすごく重要だと思った。
「「翻訳」してできあがるものではない」ってとこ。
この考え方は、人によっては受け入れがたいことかもしれない。
しかしこれについてはうまく説明しにくいな。
自分の頭のなかでもまだぼんやりしている、ってのもあるけど。
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最近、内田樹の記事に対するはてブでの反応がおもしろい。
この記事のブックマーク数はまだ少ない方だけど、みんな内田樹の記事にツッコミたくてうずうずしているように見える。
おそらく多くの人が、この記事の言わんとするところをうまくとらえられていない。
「常識」という言葉に過剰反応している人が多い気がする。
そういう人達は、「常識」という言葉が記事のなかで使われているを見ると、そのことが頭から離れなくなる。
「内田樹が常識について語っている!釣りか?」ってな具合に。
そう仮定した上で僕の意見を言うと、こんな感じ。
内田樹は常識について語ろうとはしていない。常識というものを用いて人間の言語活動のありかたを表現しようとしているのだ。
「常識」とか、一般人にもわかるような言葉を使うと変に過剰反応してしまう人が出てくる、ということなのかな。
って、そんなことはみなさん承知の上なのでしょうか。
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言葉というものは、いろいろなものとの関連によって意味を持ってくる。
しかし、関連といってもその組み合わせは無数に存在する。
我々は、その無数に存在する関連の中から適切なものを選びだす「センス」を持っている。
その「センス」のことを内田樹は「常識」と言っているのではないか。
例えば、誰かに対して「じゃ、またね。」ってなことを言う場面を想像してほしい。
このとき、何も意識しなくてもこの言葉の意味は相手に伝わっている(と思える)よね。
しかし、この言葉を文法的に解析しても、相手に伝わる(と思える)意味をそこから導き出すことはできないと思う。
にも関わらず「じゃ、またね。」という言葉の意味が相手に伝わる(と思える)のはなぜだろう?
そこに暗黙の何かが存在しているから、と思えてこない?
それを「常識」と呼んでみても良いんじゃない?
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じゃ、またね。
