[System.exit(); - そもそも、言語から完全に独立した自己というものが存在しえるのか] の続きでもある。
うーん。
この人も、なんていうか、「道具としての日本語」というのにこだわり過ぎな気が。
後半はやたらと言語の感覚的な側面にフォーカスしてて、なんか論点ずれてる気がするけど、それは本人も承知の上か。
この人と似たような捉え方をしている人が結構いる気がする。
内田樹氏の表現が下手なのか、僕が完全に間違っているのか、それとも僕以外の人が間違っているのか、このうちのどれかなんだろうな。
僕は、内田樹氏は言語学的な観点からああいうことを言っていると想定している。
で、そいういう観点からすると、彼の言ってることは結構すんなり理解できる気がする。
内田樹氏は、「サッカーがうまくなるように、毎日練習をしよう」といったたぐいのことを言っているに過ぎないと思うのですよ。
「毎日練習すれば、知らず知らずのうちにうまくなっていくよ」と。
内田樹氏の言説のなかでおそらく多くの人が理解に苦しむと思われるけどもここが一番重要ってことろが以下。
この文章の中で私がいちばん重要だと思うのは、「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される」というところである。
どうして重要かというと、ここに書かれているのはこの原稿を書き始めるまでは「そんなことを自分が考えているとは知らなかった」ことだからである。
多くの人は、自分の考えを文章にする前に「すでに自分はそれを知っている」と思っている。
言語化以前の状態での思考が可能だと思っている。
ウィトゲンシュタインはそれを「私的言語」と言う。
そして、「私的言語はありえない」とも彼は言っているのだ。
ウィトゲンシュタインが言うのだから間違いない。w
ま、冗談はさておき、私的言語がありえるのなら、我々はそれをどうやって習得すると言うのだろう?
人間にそれが初めから備わっているとでもいうのか?
それはおそらくありえない。
とすると、言語や思考というのは他人から学ぶしかないということになる。
「学ぶ」というよりは、「他人の真似をして習得する」と言うほうが近い。
内田樹氏はそのようなことを言っているのだと思う。
…
極東ブログ氏はこんなことを言ってる。
ブログとかに向いたくだらないテーマに「英語を学ぶ前にしっかりとした日本語を学べ」とかいうのがある。
内田樹氏は「しっかりとした日本語を学べ」ではなく「しっかりと日本語を学べ」と言っているのだと思います。
どちらもすごく似てますが、意味するところはかなり違います。
おそらく内田樹氏はこういいたいのです。
「しっかりと日本語を学ぶために、しっかりとした日本語を学べ」と。
なんか、余計にわかりにくくなってる気がしなくもないな。
…
多くの人が「しっかりとした日本語を学べ」と内田樹氏が言っていると思っているから、話が変な方向にいく。
おそらく、あまりちゃんと日本語を学べてないのだな。
こういうのを見るにつけ、やっぱり内田樹氏の主張は正しいと思えてくる。
いや、これは冗談だけど。
